芋窪学術演説会

 明治14年(1881)5月6日、芋窪の昇隆学校で東大和市域内最初の自由民権学術演説会が開かれました。3月27日、中藤村の真福寺で青梅街道沿いの村人達が集まり、「人民の自由、権利の伸張、天賦の自由、人生の福祉・・・」の実現を目指して民権結社「中和会」を発足させ、その熱気が燃えさかる中でした。

演説会会場になった昇隆学校 現在の社務所 クリックで大

当日の案内書 

当日の案内書

 この日の記録は、目にすることが出来ませんが、明治14年5月10日『東京横浜毎日新聞』が次のように報じています。
「さる六日は、神奈川県下北多摩郡芋久保村の演説会に当たるをもって、弊社の竹内正志、吉岡育造の二人がその招きに応じ、同村昇隆学校において学術演説をなせしに、聴衆無慮百余名場中立錐の地なき程なりし、此会を開きたるは専ら渡邊、内野、河鍋諸氏の尽力に依る・・・」

・招かれた竹内正志、吉岡育造は民権派ジャーナリストとして人気を集めていました。
・「百余名場中立錐の地なき程」の記述から、板敷きの教室に溢れんばかりの人々が集まったことがわかります。
・発起人の渡邊、内野、河鍋諸氏は、中和会の創立に関した渡邊竹四郎、同九一郎、川鍋八郎兵衛、内野杢左衛門の諸氏と思われます。

◎但し留意すべき事があります。当日の内野杢左衛門の日記です。
「頗る盛会としながら、八王子警察署長、箱根ヶ崎分署長が視察し、「集会条例範囲内」での集会であったこと、今後暫くの休会を提案したこと」を記します。(『東大和市史資料編』10p62)

 背景には、明治13年(1880)4月5日に制定された集会条例の規定(集会開催の事前の許可、集会解散権、軍人、教員、生徒の集会参加禁止)が現場に及び、「暫くの休会提案」は、狭山丘陵周辺にも集会に対する何らかの取り締まりの気配が出てきていることが伺えます。

◎しかし、村人達は、引き続いて9月25日、狭山円乗院で、名前を「自由懇親会」と変えて、演説会を開催しています。
◎このような中、千葉卓三郎が奈良橋村に来村して、鎌田家に滞在します。
次ぎに続けます

 (2019.11.10.記 文責・安島)

 中和会の発足  自由民権演説会が開かれるまでの経過

 狭山自由懇親会  奈良橋自由懇親会

 東大和の歴史・現代