狭山自由懇親会  明治14年(1881)9月25日 円乗院

 明治14年(1881)5月6日、芋窪村で開かれた「学術演説会」に引き続いて、9月25日、狭山村円乗院において自由懇親会が開かれました。学術演説会から「懇親会」に変わっています。集会条例の制定に伴う監視の目を避けての知恵と言えそうです。

狭山自由懇親会案内状 『東大和市史資料編』10p63
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 奈良橋・高木・狭山地域に点火された

 発起人に高木村の宮鍋庄兵衛と奈良橋村の鎌田喜三が登場します。会の趣旨を鎌田喜三が述べるなど、主体が芋窪・蔵敷村から奈良橋村、高木、狭山地域に変わっています。懇親会の内容は、明治14年(1881)9月28日の東京横浜毎日新聞に次のように記載されました。
 
「去る廿五日は、神奈川県下北多摩郡狭山村円乗院に於て、宮鍋庄兵衛、鎌田喜三等の諸氏が発起となりて該地方有志者を会し自由懇親会を催ふさるるに付、弊社の赤羽萬二郎も其招きに応じて出席したるが、

 生憎濛々たる宿雨の尚ほ未だ晴れず、道路の泥濘殊に甚しかりしにも関はらず、参集したる有志者は殆ど二百名なりき、
 斯くて午後三時に至り、鎌田氏が起つて該会を開くの旨趣を述へられ尋(つい)で会員諸氏の演説あり、且つ赤羽は席上二題を演じ了りて、全く散会となりしは同八時頃にてありしと云ふ」(『東京横浜毎日新聞』明治十四年九月二十八日)

会場になった狭山村の円乗院 クリックで大

 千葉卓三郎が力を注いだ

 丁度、千葉卓三郎(五日市憲法草案起草者)が奈良橋村の鎌田家に滞在している時でした。狭山自由懇談会には千葉卓三郎が関わっています。次のような五日市の深沢氏宛に書いた手紙が残されています。

 「一弊居、村山狭山村円乗院ニテ本月廿五日ニ自由親睦会相開き、櫻鳴社諸君を相招き候間(中島君ハ越後路へ御出ニ付、不得止)、御都合次第御賁臨(ひりん ふんりん 敬って来訪を求める)ヲ仰キ候」

 そして、次の演説草稿が残されており、千葉の草稿と考えられています。

千葉の演説草稿か(自由ノ理明カナラザレバ民権起ラズ)
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 「・・・抑モ我々ガ此会ヲ開キシ所以ハ、自由ノ理明カナラザレバ民権起ラズ、民権起ラザレバ自治ノ気象振ハザルナリ、自治ノ気象振ハザレバ知識焉ンゾ進ムヲ得ンヤ、故ニ諸君ノ既ニ知ラルルトコロノ櫻鳴社員、赤羽、渡辺ノ両君ヲ饗シ、我地方ノ有志者ヲ鼓舞セシメ、併セテ両君ト主義ヲ同フセラルル諸君ト共ニ懇親ヲ結バント欲スルガ為ナリ、

 ・・・諸君試ニ見ヨ、今日三府三十七県、所トシテ自由ノ声アラザルハナク、地トシテ権理ノ光ヲ放タザルナク、又如何ナル僻陬(へきすう 僻地)ノ地ト錐ドモ、速ニ国会ヲ開キ、立法ノ大権ヲ人民ノ手ニ掌握セシメント欲セザルナキハ、実ニ両君ノ誘導ニョリテナリ、此レ則チ我々ガ此ノ宴ヲ開キ有志諸君ト共ニ懇親ヲ結バント欲スル所以ナリ、謹テ渡辺、赤羽ノ寿ヲ為ス如此」(一部省略『東大和市史資料編』10p67)

懇談会が終わった後で、弁士赤羽萬二郎が宿泊、夜遅くまで関係者と懇談が行われた宮鍋家 クリックで大

 円乗院での自由懇親会が終わり、弁士赤羽は円乗院から近くの宮鍋庄兵衛家へ泊まりました。そこへ関係者が集まり夜を徹して語りあったようです。                                         
 当日出席した、内野杢左衛門は日記に次のように記しています。
 「廿五日曇又雨、正午ヨリ狭山村円乗院ニオイテ懇親会相開候ニ付、川鍋来ルニ付同道セリ、弁士赤羽万二郎来臨、会員七十壱名也、各席上演説アリ、夜ニ入宮鍋庄之助方江演者止宿ニ付罷出、談話致シ深更帰宅」(内野杢左衛門日記)
 新聞記事と出席人数が異なることも実情を知る上で大切な記録です。

 狭山自由懇親会に引き続き11月21日、奈良橋村雲性寺で、奈良橋自由懇親会が開かれます。

 (2019.11.14.記 文責・安島)

 中和会の発足  自由民権演説会が開かれるまでの経過

 芋窪村学術演説会  奈良橋自由懇親会  千葉卓三郎が奈良橋村に滞在

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