中世の村・廻田谷ッ(東大和市)
中世の村・廻田谷ッ
東大和市内で中世の村落の姿をそのまま見るのは困難です。幸い湖畔三丁目に、二つ池公園があり、周辺から平安時代後半から中世にかけての遺跡が発見されています。
湧き水、平安時代遺跡、谷ッの水田、板碑、寺社の創建と遺跡を追って行くと、素朴な家族、一族、集団、村の成立が見えて来そうです。
現在の東邦団地がある場所は造成前は水田が営まれていました。廻田谷ッ、廻り田たんぼと呼ばれるように、二つ池を田用水として少しずつ水田をつくっていった様子が辿れます。
画像左側から廻田谷ッ遺跡、廻田谷ッ東遺跡が発見されました。画像右側に連なる峰には永仁2年(1294・東大和市最古)の板碑が埋納され、平治元年(1159)創建と伝えられる延寿院(円乘院旧称 二つ池の付近とされる)がありました。
廻田谷ッ遺跡からは、東西3㍍、南北4㍍の竪穴住居址が発掘されています。東側にカマドがつくられていて、須恵器が発見されています。また、自然釉薬のかかった壺が発見され、他地域との交流があったことが考えられます。さらに、この住居址の20㍍ほど西側に、別の住居址(三分の二が失われていた)が発見され、この周辺に一族に近い集団が居住していたことが推測されています。
廻田谷ッ東遺跡からは、平安時代末の土器と、まだ、確定されていませんが中世の柱穴と思われる遺構が発見されています。
これらから、廻田谷ッ遺跡・廻田谷ッ東遺跡は、平安時代から中世にかけて、この地域に竪穴住居をつくり、家族を形成し、水田を営み、定着していた跡と考えられます。
さらに、二ッ池周辺には円乘院旧地の延寿院が存在し、元治元年(1159)の創建を伝えます。
また、峰を仰いで、永仁2年(1294)の板碑出土地があり、円乗院へと峰の路が繋がります。
もう一方の谷ッ入です。僅かですが水田がつくられていました。水脈は現在も保たれています。
谷ツ入を囲む両脇の峰には、それぞれ村人の守り神として、天狗大明神(創建不明)、愛宕社(創建不明)がまつられていました。
慶長年間、台風によって、二つ池の近くにあった延寿院が破壊されました。愛宕社の地に移転して、愛宕山円乘院となりました。円乘院と円乘院参道入り口の間の丘陵地には、板碑が集中して埋納されていました。
天狗大明神と愛宕社は、明治維新の際、神仏混淆の整理により、名称と居所を替え、現在の狭山神社になっています。
総合して、この地域に、中世初期からの村が存在していたと推定されます。戸数、人口、村の姿など不明です。
江戸時代、谷ツ入の地域には後ヶ谷村の名主が居を構えます。中世からの伝承を持ちます。
東大和市域には、このような地形の箇所が、清水の本村、上ノ台周辺、高木の高木神社周辺、奈良橋の八幡谷ッ、蔵敷の熊野神社、厳島神社周辺、芋窪の東、中、西谷ッの地、・・・などと多くあります。それぞれの地に、古代から中世にかけての村が成立した痕跡が残ると思われます。解明が楽しみです。
(2019.11.19.記 文責・安島喜一)