八坂神社の記録(野口の天王様 東村山市)

所在地 東村山市栄町3-35-1
祭神  素盞嗚命(すさのうのみこと)(牛頭天王)
由緒  創建 弘安元年(1278)から間もないころか、または国宝正福寺千体地蔵堂の創建された応永14年(1407)の頃、
    臨済宗正福寺が別当でした。
    「天王宮」「祇園社」「野口村の牛頭天王(ごずてんのう)さま」「八雲神社」とも呼ばれていました。
    明治2年(1869)八坂神社と改称しました。疫病除けの神として信仰されてきました。 
    正福寺山門右側に、八坂神社があります。
    この社について、東村山市HPは「正福寺の境内に神輿の格納庫の仮宮があり、神仏混淆(しんぶつこんこう) の名残を感じさせます」と記しています。

 八坂神社(武蔵野牛頭天王 野口の天王様)の記事で省略した記録の全文を記します。

府中街道に面して東向きにまつられる八坂神社

八坂神社の概要についてはこちらをご覧下さい。

1八坂神社パンフレット

八坂神社パンフレット
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由緒

 「八坂神社の由緒は寛文二年(一六六二年)三月二十六日の火災をはじめ、数回の火災にあってしまいましたので創建年月は、残念ながら分かりません。
 しかし昔は「天王社」、「天王宮」、野口村の牛頭天王(ごずてんのう)などといわれて、「八雲神社」といわれたこともありました。近くの臨済宗正福寺が別当でしたが、この正福寺が寛文年間に数回の火災にあいました。その時に八坂神社の大切な記録がぜんぶ燃えてしまいました。
 しかし本地垂迹説によりますと、素盞嗚命(すさのおのみこと)は「牛頭天王(ごずてんのう)」で、寺院の守護神ですから、正福寺の守護神として牛頭天王さまが奉斎されたと思われます。

 正福寺が建立されたと伝えられる弘安元年(一二七二年)から間もない頃から、または現在の重要文化財の正福寺千体地蔵堂を建立されたと考えられる応永十四年(一四〇七年)以降間もなく奉斎され、のちに鎌倉街道ぞいの現在地に社殿を建立したと思われます。
 
 宝暦四年(一七五四)十一月の野口村「村柄様子銘細書上帳」には、「村中鎮守牛頭天王・別当正福寺 五反七畝弐十弐歩御除地」とありまして、天保十三年四月の「村柄様子銘細書上帳写」でも同じ文であります。

 明治三年(一八七○)十一月の「神社書上帳」に「社号 往古より天王宮と唱え来候処 明治二年、奉願上八坂大神と改替仕候外に旧号等無御座候」とあり、明治二年八月に「天王宮」を「八坂神社」と改め、同じ年に村社に列せられました。」

牛頭天王(ごずてんのう)

「牛頭天王とはインドの祇園精舎の守護神といわれます。牛頭天王はインド北方九相国の神で、素盞嗚尊(すさのうのみこと)とインドの牛頭天王との事跡に、似ていらっしゃることから習合されたと伝えられます。京都の「八坂神社」に祭られています。愛知県の「津島神社」にも古くからこの神の信仰が深くひきつがれています。」

八坂神社発行パンフレット1面
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■八坂神社(天王さま)の大獅子頭

「東村山市指定有形民俗文化財に指定されています。
(指定・平成三年七月二十四日 指定第二十四号)
「一対の大獅子頭は、文久三年(一八六三年)に、櫻井富衛門、鈴木勘衛門、松田定工門、五十嵐喜兵により奉納されました。八坂神社の祭神牛頭天王(ごずてんのう・通称天王さま)「素蓋鳴命(すさのうのみこと)と胴体(どうたい)とされています。」は、疫病除けの神として広く信仰されています。現在八坂神社では、七月の祭礼時のみ拝殿の回廊(かいろう)に奉安されます。特に大変貴重なので、じつくりとご覧ください。」

2『新編武蔵風土記稿』(野口村)

天王社
 社地5町、無年貢地。村の南にあり。村の鎮守なり。勧請の年代詳ならず。社に覆屋を設く、2間四方。拝殿2間に3間東向なり。神体は銅像にて手に斧を以て立る状なり。長7寸許。社地すべてに松樹蒼鬱としてものさびたり。例祭年々6月15日にて、正福寺持。」

3『武蔵名勝図会』山口領 慶友社版p56

天王神社
 山口領野口村。往古より奥州街道の辺りに鎮座。勧請の年月不知 社地に松樹鬱蒼として生茂す。村内正福寺持なり。祭神素盞嗚命尊の神像あり。一に進雄尊、或云、武塔天神なり。神体 手に斧を提持し立給う銅像。これは巨旦が賊を討滅し給う威霊の像なり。長七寸許 霊像にて見る事を許さず。村中の鎮守なり。社三尺 二尺。上屋二間四方。拝殿二間三間。木華表柱間九尺。社地凡そ五町歩 祭礼六月十五日」

4『狭山之栞』p140

 「武蔵野天王は野の中にあり、八雲神社と改称す。除地 境内 旧反別五反七畝二十二歩 見面八町ありと云う。
 別当は正福寺なる故に神体は銅仏の持國天 長一尺なりしが維新の際 是を除き福岡喜内神官となる。
 他に一反二十四歩の除地ありしが 維新の際一切奉還し官有地となる。
 当所の北に大塚あり、高さ一丈、元弘三年義貞公鎌倉攻めの時 築造したるものと云ひ伝う。」

5『北多摩神社誌』 

「創建年月不詳であるが、天王社、天王宮、野口の牛頭天王などといわれ、八雲神社といわれたこともある。近くの臨済宗正福寺が別当であったが、この正福寺が天文二年三月二十六日の火災をはじめ、数回にわたって焼失しているので、当神社の記録はこの際に正福寺の記録ともども焼失して、その創立は詳らかでない。

 按ずるに本地垂迹説によると、素戔嗚尊はすなわち牛頭天王であり、寺院の守護神であるところから、正福寺の守護神としてこの牛頭天王が奉斎されたものであろう。よって正福寺が建立されたと伝えられる弘安元年から間もない頃か、または現在の重要文化財の正福寺千体地蔵堂の建立されたと考えられる応永十四年以降間もなく奉斎され、後に鎌倉街道沿いの現在地に社殿を建立したものであろう。

 宝暦四年十一月の野口村「村柄様子銘細書上帳」には「村中鎮守牛頭天王 別當正福寺 五反七畝弐拾弐歩御除地」とあり、天保壱参年四月の「村柄銘細書上帳写」でも同文である。明治三年十一月の「神社書上帳」に「社号 往古ヨリ天王宮ト唱ヒ来候処、明治二年奉願上八坂大神ト改替仕候、外ニ旧号等無御座候」とあって明治二年に天王宮を八坂神社と改め、同年村社に列せられた。」

6「八坂神社由緒」碑(境内)

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 「祭神は素盞嗚命(牛頭天王)である。
創立は別当正福寺の火災で記録が焼失し詳らかでないが正福寺の建立された弘安元年(1278)から間もないころか、または国宝正福寺千体地蔵堂の創建された応永十四年(1407)の頃と考えられる。
 宝暦四年十一月の野口村柄様子銘細書上帳に「村内鎮守牛頭天王 別当正福寺 五反七畝弐十弐歩御除地」とあり、また明治三年十一月の神社書上帳には「社号 往古より天王宮と唱え来候処 明治二年 奉願上八坂大神と改替仕候」とあって、同年八坂神社と改め村社に列せられる。武蔵名勝図絵多摩郡之部巻二武蔵野新田山口領村山郷には「天王神社 山口領野口村 往古より奥州街道の辺りに鎮座 勧請の年月不知 社地松樹鬱蒼生茂す 村内正福寺持なり。祭神素盞嗚命尊 之の神像なり神体手に斧を提持し立給う銅像 是巨旦が賊を討滅し給う威霊の像なり。長七寸許 此れ霊像にて見る事を許さず 村中の鎮守なり。社地風五町歩 祭礼六月十五日」とある。
 社殿は残っている棟札から、天保三壬辰年に拝殿が改築され屋根は茅葺であった。明治四十二年屋根は亜鉛鉄板葺に替えられている。この頃の例大祭は七月十五日で前日から神輿 大太鼓 屋台囃子等賑わいは遠く近郷の人々も詣で大きな楽しみとなっていた。昭和三十九年に拝殿幣殿とも改築されたが、平成元年(1989)現社殿が新築落成した。」

7「八坂神社御社殿新築の記」碑(境内)

「八坂神社御社殿新築の記」碑
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 「八坂神社は古より此の地に祭られ崇められてきた。東京都においては発展の目覚ましい近郊の街づくりに都市計画道路の整備が急がれ、当社の表に面する東村山都市計画道路一・三・一号線(旧鎌倉街道・通称府中街道)の拡幅整備事業が行われることになり、昭和六十二年の始め、東京都より道路用地として当神社所有地九五三平方米を買受けたい旨の申し出があった。同年三月十五日責任役員会議に諮り、これを受け入れることが決定し、同年四月十三日、東京都との間に売買契約が結ばれた。

 しかし、その道路拡幅計画を見ると参道が十米余り短くなり狭隘となるため、神社の運営上、御祭礼の又木、その他施設に種々影響があり、同年四月二十九日に役員総代会議を開き論議検討が行われた。

 社殿の裏の有効利用と境内建造物、諸施設の配置等を勘案し、従来の社殿を移転するか、改めて後方に社殿を新しく造営するかの何れかに決断せざるを得ない段階となり、新社殿を構築すること、その工費は都へ売却した道路用地代金から支弁することが決定した。

 なお、社殿建設委員会が設置され全総代がこれに当たり委員長には責任役員鈴木宗作氏が就任した。更に新社殿の建築設計にには神社仏閣建築に卓越した技術と熱意をもって信頼されている株式会社古典建築設計事務所長竹澤要氏に依頼することも決定した。社殿建設委員会はその後、都内及び埼玉県内における最近建築された神社の見学を行い、それらを参考として祭典執行その他理想的な社殿を造営するよう設計と検討が加えられ、同年六月十五日、設計管理株式会社竹澤古典建築設計事務所との間に設計管理業務委託契約書が交わされた。

 かくして同年十月十四日社務所において工事請負希望業者に対する説明を行い同月二十六日に入札が行われ、開札の結果、工事費二億二千五百万円也、工期昭和六十四年四月末日にて、株式会社金剛組代表取締役金剛利隆氏が落札し同年十一月十二日工事請負契約書が取り交わされた。この工事の内容は次のとおりである。

 新築する社殿(御本殿、祝詞殿、拝殿他付帯建物)二一一、七四平方米(六十四坪)
 移転する旧社殿(現在の奉額堂)七八、一二平方米(二十三坪)

 地鎮祭は昭和六十二年十二月十四日午前十一時より古式豊かな手釿始(ちょうなはじめ)の儀など厳粛荘厳に執り行われて工事は着工となった。
 昭和六十三年一月には鎮守八坂神社御社殿新築造営の趣意書を氏子崇敬会員に配布し建築のお知らせをした。工事の旧社殿おける最後の例大祭も同年七月十七日盛大に執行された。工事も進み新社殿の一日も早い完成を待ち望んでいたところ、同年九月十五日またず突如建設委員長鈴木宗作氏が急逝された。新社殿の完成を見ずに不帰の人となられ誠に残念であった。その頃、御社殿新築の一端にと崇敬者からの声もあり「銅板壱枚奉納推進運動」が展開され、氏子崇敬者を始め崇敬の念篤い多くの方々から多額の浄財を御奉納いただいた。よってそのお心の光を留めるべく御芳名を奉額堂に掲げた。

 昭和六十四年一月七日、昭和天皇が崩御遊ばされ、元号が平成と改められた。平成元年(一九八七年)三月十七日上棟式が古式により盛大に執行され、五月三十日夜御遷宮式が雨の中静かに行われた。いよいよ六月十日新御社殿が完成して、その落成奉祝祭が神社本庁より献幣使の御参向のもとに各会の来賓をお迎えし、崇敬会の役員、総代、氏子の方々多数の参加をいただいて賑々しく式典、続いて祝賀式が盛大に行われた。かくして待ちに待って八坂神社新社殿造営を完了したことをここに記す。」

 まだまだ多くがありますが、一部を紹介しました。

 (2020.04.16.記 文責・安島)

 八坂神社(武蔵野牛頭天王 野口村の天王様 東村山市)