大和村役場の新築、奈良橋への移転
大和村役場の新築、奈良橋への移転
東大和市はこれまで村役場、町役場、市役所と次のように移動してきました。
①高木神社東側(番組会所、連合戸長役場、大和村役場)
②奈良橋(現在の奈良橋市民会館 大和村役場、大和町役場、東大和市役所)
③現在の市役所(市役所)
①については「妙楽寺の番組会所と神奈川県所属(明治4年・)」「大和村の誕生(大正8年・1919)」「大和町になる(昭和29年・1954)」に記しました。
このページでは①から②に移る経過を書きます。
大正8年(1919)、大和村になったときは、従前の連合戸長役場をそのまま村役場としました。人々が狭山丘陵の麓を生活の基盤とする間は問題がありませんでしたが、事情が変わってきました。東京ガス電気工業(株)の立地です。『東大和市史資料編』4は次のように記します。
「一九三八年(昭和十三)、日中戦争の拡大にともない、航空機の増産を図るため、村の南部に瓦斯電立川工場(後日立航空機)が設立され、多くの従業員が移住してきた。
その際、異動や児童の転入学等の手続きに役場を訪れた人びとは、古い小さな建物に、驚異の目をみはった。
その後、会社発展にともない、人口は増加の一途をたどり、当時の建物では対応できなくなってきた。
村では、会社の援助を受け、村の中央である奈良橋に、木造モルタル二階建の新庁舎を新築し、昭和十五年三月移転した。」(p74)
上図のように、昭和13年当時、東京ガス電気工業(株)の工場、住宅群(南まち)と村役場は一面の畑を間にして「遠くの向こう」(当時の人から聞いた言葉)にありました。新しく転入してきた人々には、何より位置がわかりにくくて困ったそうです。バスなどの交通機関も乏しく、徒歩か自転車が主でした。昭和14年(1939)会社が日立航空機(株)に変わり、軍需産業化すると、行政的にも連絡密度が高くなり、改善が求められました。
ここに、役場新築の話が持ち上がります。村の財政が逼迫する中で、次のような状況で建設されました。
「当時物資が統制されていたので、民間はもちろん官庁でも材料の購入が困難であった。日立航空機は軍需工場だったので、物資の入手を図り材料を日立航空機が大和村に支給して建てた」(古滝直衛さんの話)」(『東大和市史資料編』4p74)
こうして、新しい庁舎が建設されました。
工場が建設される前の昭和13年(1938)人口は 5,929人 戸数991戸
役場が建設された時の昭和15年(1940)人口は 8,929人 戸数1,408戸でした。
終戦の昭和20年には工員が 約13,000人 とされます。
これらの急速な動きに役場が対応していたことがわかります。
どのようにして位置が決まったのか、はっきりしません。
選ばれた地点は奈良橋でした。「本村」(ほんそん 旧来の村々)の人々にとっては中央ですが、南まちの人々にとっては「わかりやすくなった」でした。
終戦後は一時、工員が故郷に戻ったこともあり人口が減ります。その後、昭和30年代中頃から急増しました。
村から町になり、受け持ち仕事が増えるにつれ庁舎は増築に増築を重ねて、敷地いっぱいになりました。
市街化が進み、ほぼ四角な市の真ん中への庁舎建設の要望が高まりました。
昭和57年(1982)、現在の庁舎が建設され、移転しました。その状況は別に記します。
(2020.08.17.記 文責・安島)