東大和市の地名(3江戸街道から原 1)
東大和市の地名(3江戸街道から原 1)
1谷地を望む台地縁辺
狭山丘陵の懐に生活の基盤を置いた村人達は、まず、南の砂の川(空堀川)を目指して開墾を始めました。
麓の村から、砂の川へは下りが続き、川を越えてまたのぼります。
下りの地域には多くの村が「・・・砂」と「砂」の付く地名を付けました。のぼりの地には「・・・台」「立野」「海道内」などの地名がつきました。
芋窪地域の一例です。橋の手前が「上砂」「中砂」「下砂」。橋の向こうの登り坂の区域を「立野」として、万治元年(1658)に開墾しました。
「どうにか、砂を終わったな」
「立野はちっとんべえ北っ坂になるから、つくりモノ(作物)に気をつかわねえといけねえな」
「そんに、水場から遠のくしな」
こうして江戸街道まで開墾を進めてきました。村人たちの前に、だだっ広い原野が広がります。
この時の村人達の思いは、どんなものだったのだろうかと、点々をおいてみました。
村山貯水池に沈んだ区域と丘陵の南麓に集落があります。生活の本拠地は南麓では谷ッを中心に村山道から奈良橋川を越えた辺りまでと推定しています。
砂の川(空堀川)以南は全く人家がありません。
村人は江戸街道に立ちました。
「広えな。ただ、原だな」
「ほんに、何にもねえな」
「静かだけんど、あにか、獣は居んかな」
「・・・・・」
「野火止も見えねえな」
「あっちの方に青梅道があるはずだ」
「サー、一息ついたから、始めんか」
いよいよ、武蔵野の原野の開拓です。
2武蔵野の原野の開墾
それぞれの人々は隣り合って生活し、交流していましたが、属するのは別の村です。
しきたりも違うし、付き合い方も違っていました。境界のギザギザをとくとご覧下さい。
一つ一つの決め方に相当の緊迫感があったと想像させます。
・原に出ました
・腰ほどもある茅(かや)や茨(いばら)を取り払うと
・黒土(30㌢ほど)になり
・その下から赤土が顔を出しました。
・赤土は風に舞いました。弁当の時です。
「これじゃ、飯まで赤くなっちゃうぜ」
「手で覆ってな、ぱっと開けて、ぱっとふたして、その間に食うだぁー」
・弁当を食べるにも技(わざ)が必要でした。
・その中を南へ南へと開墾を進めます。
3起伏が続き、低地があり、川の跡のような地域に出る
「これは、あんだんべ?」
芋窪、蔵敷、奈良橋の村人達は立ち止まります。白い点線のあるところです。
「高みもあるし、くぼい所もある」
「川にしちゃ、水がねえし」
「でも、大雨がくりゃ、水びたしだぁな」
「大昔の川の跡だんべえか?」
「それに、府中道の近くじゃ、でかく曲ってんぜ」(現東大和病院付近)
「西っ方はどうよ?」
「あんだか、中藤(武蔵村山市)につながってんとよ」
不思議な地形は大きく、長く、帯のように起伏が続いて、やがて急に曲がります。
上北台公民館の前を通って東大和病院東側あたりです。
「やっぱし、大昔は、川が流れてたかも知んねえな」
「くぼい所は小川(小平市)までいってんぜ」
「あんちゅっても、畑にして、地所の名前をつけとくべえ」
と名前の相談が始まりました。
芋窪の人たちは
「くぼを挟んで、こっちが高けえから、北台(きただい)がよかんべ」
「じゃー、向こうっ側は南台(みなみだい)だな」
蔵敷の村人は
ちょうど八王子への道(八王子道)が通っていたので
「おら方じゃ、八王子道にすんべえ」
「その先は、ずーっと、くぼいから長久保がよかんべ」
奈良橋村の人々は
「おら方も、くぼい所が続くな」
「長久保じゃ、芋窪とごっちゃに、なっちまうべえ」
「たしか、ここに、山王様(さんのう)をまつる予定だ」
「いや、山神様(やまのかみ)もまつんだ」
「じゃー、高いとは山王様と山神様にして、くぼい所は大久保にすんべえ」
「でっかく曲がったところからは、久美久保(くみくぼ)がよかんべ」
こうして、奈良橋村までは決まったようです。500年余を過ごしましたが、現在の図面でもその跡が辿れます。
◎上北台公民館~農地~山王公園と傾斜に注意しながら歩くと、村人達がそれぞれに名を付けた跡が現在でもたどることが出来ます。
◎隣接する高木村から、後ヶ谷村、清水村にかけてはまた別の景観がありました。
次に続けます。
(2021.02.16.記 文責・安島)