東大和市の地名3(江戸街道から原まで2)
東大和市の地名3(江戸街道から原まで2)
1660年~70年代になると、ほぼ江戸街道の辺りにまで、開墾が進んできました。
高木、後ヶ谷、清水村の人々は南に広がる広大な原野を前に、心新たに開墾の意志を固めたと想像します。
芋窪、蔵敷、奈良橋村の場合は、大きな起伏や窪地がありました。高木から清水村にかけては、西から東側へのなだらかな高低差がありましたが、見た目にはほぼ平原の原が連なっていました。
高木村の人々です。
「隣(奈良橋村)じゃ、窪地が続いて名前に苦労したらしいぜ」
「おら方じゃ、ずーっと原だな」
「ところで、この場所に、山の神をまつんだんべ?」
「そうよ、みんなの安全と豊作をお願えするだあ」
「そりゃーいい」
「うんじゃ、江戸街道のてめえ(手前)は海道内、越えたら海道向としてえな」
「それからは原の真ん中どけえらだから、中原か?」
「そうよな、山神様をまつって山神前」
「その向こうは向原か」
「山神様が中原と向原にかこまれて、こりゃいいな」
「山神前」の地名は、現在、「山神前公園」として残されています。
「山の神」は現在、高木神社本殿左側にまつられています。
「中原」は新しい町丁名「仲原」となり、仲原公園、仲原緑道にその地名が付けられています。
「向原」は新しい町丁名「向原」となり、向原中央公園等にその地名が付けられています。
寛文9年(1669)検地帳に「海道内」「海道向」「中原」の地名があります。この頃に、この地が開墾されたことがわかります。
◎用水北が細長くなっているのは別に記します。
後ヶ谷村の人々です。
後ヶ谷の村の人々は村山貯水池に沈んだ区域と丘陵の南麓に本拠を構えていました。
日常の生活道であった村山道を越すと「前野」にしました。
砂の川の付近を「砂」として、江戸街道まで開墾を済ませました。
江戸街道付近は「江戸街道北、西、南」と名前を付けました。それからです。
「おら方も、こけえら(この辺)に山神様をお迎えしてえな!」
「俺が村は、山(狭山丘陵)と原で成り立ってんべえ」
「だあから、原の神様と山の神様の両方がでえじ(大事)だんべ」
「確かだ、よし、原の神様と山の神様をおまつりすんべえ」
として、祭神に原と山の神の両神をまつりました。
地名は「山神西」と「山神東」になりました。
◎山の神は、現在、狭山神社にまつられています。
◎後ヶ谷村延宝5年(1677)検地帳に「前野」「砂」が記載されます。
清水村の人々です。
清水村も村山貯水池に沈んだ区域と狭山丘陵の南麓に本拠がありました。
村山道の近くを「本村」と呼んでいました。
貯水池に沈んだ区域と南麓は、元々は別村であって江戸時代初期に一村になったとされます。
原の開発は共に行われたようです。
「あんたって、江戸街道には世話になってんよな」
「稼ぎのもとだあからな」(江戸への農間稼ぎの道)
「北っ側はくぼいから立野窪にしたよな・・・」
「南は、ずばり、江戸街道にしたらよ」
「そりゃいい」
「その先は、また、原だな」
「村山道の南っ方を「東原」にしたあから、「仲原」にしたらよ」
ということで、それぞれの地に名前が付けられました。
「仲原」の地名は現在、「上仲原公園」として残されています。
こうして、全体として、西は青梅道まで、東は野火止用水付近まで開墾が進み地名が付けられました。
残すは玉川上水、野火止用水の付近です。次に記します。
(2021.02.23.記 文責・安島)