ねずみ沢のかっぱ
ねずみ沢のかっぱ
「とおい昔、貯水池ができるずっと前のことだよ。蔵敷のなかに、ねずみ沢という池があった。そこは森のように木が茂っていて、うす暗く、水は氷のように冷たかった。しかし、子どもたちはよく遊びに行ったものだ。
夏になると泳いだり、魚をとったり、おもしろくてしかたがなかった。
その池に、かっぱが出たんだよ。
ある日のことだった。いつものように、仲聞と遊びに行った子が、泳いでいるうち急に姿が見えなくなった。
池っばたで連れの子たちがさわいでいると、その子はぷかりと浮かび上ってきてニヤニヤ笑い、また沈んでしまった。
なんと、かっぱが引きずり込んだんだ。
もう、みんなたまげたね。可愛そうに、子どもは水死してしまったが、なぜ笑ったのかな。
それは、かっぱに腹の物ぬかれたからだ。抜かれるときは、そりゃあくすぐったいもんだとさ。
かっぱは、人間のぞう物が好物で、それを尻からするする吸うんだそうな。
その子の尻に大きな穴があいていたということだ。
「ほんとに気味がわるい。かっぱに取りつかれるから、もう池に行ってはいけないよ。」
おじいさんは、子どもたちにそう言いました。
ねずみ沢の池は上堰堤(かみえんてい)の近くにあって、今は貯水池の中に沈んでいます。」(『東大和のよもやまばなし』p193~194)
蔵敷の古老は、こう話した後で
「だけんど、所沢じゃ、こんな話があんだぜ。
秋津の持明院よ、あの前の柳瀬川に、曼陀羅淵(まんだらぶち)があんじゃんか。
そこにゃ、曼陀羅のかっぱが住んでんだと。
そんでな、伊草(いぐさ)の袈裟坊(けさぼう)、笹井(ささい)の竹坊ちゅうかっぱと仲良くしてたらしいぜ。
川底にな、穴がずっと繋がっててな、てげえに、ゆききしていたっちゅことよ。
とすればよ、おら方の「ねずみ沢」だってよ、
柳瀬川を通じて、これーらのかっぱと仲良しになったって不思議はねえよな。
そしてな、あんだか、中元にはみやげ物によ、
曼陀羅淵でとった人間の「はらわた」を持って行くっておまけが付いてるぜ。
そこが、ちっトンべえしようがねえな。
だあから、みやげに、採れた作物をあんでも(何でも)持って行ってよ、
それが倍返しになるような神通力でも付けてくれりゃ、ほんこに面白かんべえ」
と教えて貰いました。結構遠いけれど、日常行き来する範囲です。
この話は、江戸時代から、東大和市内でも興味を持たれていたようです。
寛政7年(1791)9月、江戸・青山の清痩園主人が、清水村の大久保家に宿泊しました。
青梅、八王子・・・と周辺を回遊します。その記録を『武野遊草』として残しました。
「10月7日、梅厳寺(東村山・梅岩寺)より帰るさなかに、二瀬川のうちにある曼陀羅ヶ渕についた。
渕上に曼陀羅堂(持明院)があり、寺を渕上山という。
古のことであるがこの渕に住む河伯(かはく=河童)が訳あってこの寺へ曼陀羅を納めたといい伝える。
今もこの渕の底に河伯が住んでいて時々、人を害するという。
あの梅厳寺の所化(しょけ・弟子)もこの渕で河伯のために害されたという。
渕に行く路は梅厳寺の寄田の林間を経てすぐに渕端に着く。
水いたって静かで青み渡り、秋津の岸上は屏風を立てるようである。
私は悪寒がして、そこそこに帰路に向かった。」
とあって、曼荼羅淵のかっぱの話が伝わり、実際に現地へ行っています。
ねずみ沢のかっぱも交流があったのでしょうか?
(2021.04.29.記 文責・安島)