『狭山之栞』の「武蔵国」
『狭山之栞』の「武蔵国」
江戸時代、東大和市域内の人々は武蔵国についてどのように受けとめていたのでしょうか?
良い資料があります。
江戸時代の後ヶ谷村名主・郷土史家の杉本林志(しげゆき)氏が『狭山之栞』(さやまのしおり)に次のように書いています。
(原文に読み仮名を入れて紹介します)
「武蔵相模は上古(じょうこ)
一国にして神代牟佐(かみよむさ)なるを上下に分ち
牟佐上(むさかみ)牟佐下(むさしも)と云ひしを、
上を『佐上』(さがみ)下を『牟佐下』(むさし)と云ふ。
国造本紀(こくぞうほんぎ)に曰く、牟佐志国造(むざしくにのみやつこ)、
志賀高穴穂(しがのたかあなほ=成務天皇 )朝御代
出雲臣祖(いずもおみのそ)名、二井之宇迦諸忍神狭命
(ふたいのうかもろおしのかんさのみこと、 ふたゐのうかもろおしのかむさのみこと)
十世孫(じゅっせいまご)兄多毛比命(えたもひのみこと)定賜云々、
叉人皇十二代景行天皇之御宇(ぎょう=天皇が天下を治めている期間)
御子日本武尊(やまとたけるのみこと)東征西帰の砌(みぎり)
当國に御具足(おぐそく)を埋め玉ふ。其御具足御嶽山神宝となり
徳川家光公上覽の上 葵絞附具足櫃(ひつ)寄附ありて今尚(いまなお)存せり。
是『武蔵』国号の始めと伝ふ。
萬葉集巻十四に『古非思家波素氏毛布良武乎牟射志野乃宇家良我波奈乃伊呂爾豆奈由米』
(恋しけば袖も振らむと武蔵野のうけらが花の色に出なゆめ)
には牟射志(むざし)とみえ、古事記の无邪志(むざし)と同じく濁りよみとなり居れど、
和名抄には「牟佐之」と澄音(すみね)をもて読めり。
また国造本紀に『胸刺』(むさし)などとあるは如何。
名にしあふ武藏野は この武蔵國の中に介在する広き原野を申すは愚老が云はずとも明かなるも
野の名あまりにも著しき故に、恰(あたか)も武蔵野の中に武藏國なるが如き思を抱かしめらるるも
可笑しきまことと云ふべし。」(『狭山之栞』昭和14年版p6)
江戸時代、狭山丘陵周辺では「武蔵国」をこのように理解していたようです。
林志氏は草鞋ばきで狭山丘陵の村々を訪ね
史跡を調べて、細かに記録されました。
その間に、武蔵国の成立など資料を読みあさったのだと
その苦労されている様子が偲ばれます。
郷土の貴重な資料として、紹介します。
東大和市では、慶雲4年(707)豊鹿島神社の創建が伝承されます。
この時の棟札が残っていて「武蔵国」の記載があったら・・・
などと夢を見ます。
(2022.01.07.記 文責・安島喜一)