蓮華寺(東大和市)
蓮華寺(東大和市)
寺 名 石澤山愛染院蓮華寺(れんげじ)
所在地 東大和市芋窪三丁目1603
宗 派 新義真言宗 豊山派
本 尊 不動明王
多摩新四国第四十番霊場
地元で芋窪街道と呼ばれる主要な南北道路に面して門があります。
右側の鳥居は豊鹿島神社要石(かなめいし)の社です。
ご紹介することが多いので、このページではお寺の概要について記します。
歴史や石造物については別に記します。
門は閉まっていることもありますが、右脇の通路からお参りできます。
文禄年中(1592~1595)承圓法印が開創し、蓮花坊(れんげぼう)と呼びましたが、寛永9年(1632)中に、承雲和尚が蓮花寺と改称し号を石澤山愛染院としたと伝えられます。承雲和尚の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が歴代住職墓地にまつられています。
門をくぐると左に庫裡、正面に本堂、右奥に住職歴代墓所があります。
大正12年(1923)、村山貯水池の建設により湖底に沈んだ石川の地からこの地に移転しました。
門を入るとすぐ右側に石造物が並びそのことを語りかけます。
左側①の碑は昭和9年(1934)に建てられた「弘法大師一千百年御遠忌報徳之碑」で蓮華寺の大まかな歴史が刻まれています。
当山は文禄年間(1592~1596)承圓法師が開創したと始まり、大正12年(1923)当地へ移ったとあります。
その隣の②は「弘法大師 興教大師 御遠忌記念顕彰碑」です。昭和49年(1974)より平成4年(1992)に至る間、壇信徒のご賛助ご志納金により本堂、玄関、客殿、鐘楼堂を建立とあります。それぞれの碑、石造物については別に記します。
本堂の前側に、宝篋印塔(ほうきょういんとう 明治16年・1883)と狭山三十三霊場他巡拝記念碑(昭和54年・1979)があります。
本堂の右側に弘法大師像(昭和57年・1982)と水子地蔵菩薩、六地蔵尊がまつられています。
水子地蔵菩薩 六地蔵尊
発願 蓮華寺御詠歌講 昭和59年(1984)10月14日
蓮華寺歴代住職墓地
本堂右側奥に蓮華寺歴代住職墓地があります。
石段を上がると、すぐ右側に大僧都法印承雲位の宝篋印塔(寛永10年(1633)4月12日)があります。続いて歴代住職の墓石が並びます。
画像右側面の中央、やや背の高い石碑は「先師栄雲和尚廟碑」です。
宝篋印塔 寛永10年(1633)
宝篋印塔 寛永10年(1633)4月12日
大僧都法印承雲位 蓮華寺最古の宝篋印塔です。
創建時、蓮花坊と呼ばれた寺を寛永年間に整備し、蓮華寺と改称し、号を石澤山愛染院(寛永9年・1632)としたと伝えられます。
先師栄雲和尚廟碑
蓮花寺24世の住職栄雲和尚を讃え、その経歴を記す碑です。蓮華寺に関しては天保9年(1838)、明治3年(1870)と住職不在の記録が残ります。明治10年(1877)代、栄雲和尚はそれらを乗り越えて蓮華寺を盛んにし、明治11年(1878)、三多摩最初の自由民権学習結社とされる「衆楽会」(しゅうらくかい)を指導しています。碑文の詳細は別に記します。
宝篋印塔 明治17年(1884)
本堂への階段の左下に宝篋印塔がまつられています。
追善供養
本堂再建入仏供養
弘法大師一千五十年遠忌
明治十七年(1884)三月廿一日
芯蒭栄雲(しんすうえいうん)
庶檀那中
と刻まれています。蓮華寺は無住の時期が続き、栄雲が迎えられ、この時期に本堂の整備がなされたことを伝えます。
蓮華寺の旧地は村山貯水池の湖底に沈み訪ねることは出来ません。明治時代には、自由民権運動の先駆けとなる学習会が開かれました。その伝統はこの地に移っても続き、『東大和市史資料編』8 は次のように記します。
「昭和十九年(一九四四)、第二次世界大戦の最中都内赤坂小学校の児童の集団疎開を受入れ、翌年には戦災孤児となった十三名の子供たちの世話をしている。寺は宗教的活動ばかりでなく、こうしたいわば福祉活動やあるいは寺子屋といわれるように教育活動をおこなうものも多くあり、地域の発展に大きく貢献していることも忘れてはならない。」(『東大和市史資料編』8 信仰のすがたと造形p53~54)
蓮花寺の歴史、主な石造物については別に記します。
(2019.04.10.記 文責・安島喜一)