丸彫地蔵尊 
 奈良橋 庚申塚墓地 文化4年(1807)

 奈良橋五丁目、庚申塚墓地に、秩父、坂東、西国の百所めぐり完遂を記念して建立した丸彫地蔵尊があります。
文化4年(1807)のことです。村山貯水池の湖底に沈んだ内堀の里の人々が供養しました。

仏身の高さ74㌢ クリックで大

台石正面
 天下
  秩父
  西国  百ヶ所供養仏
  坂東
 泰平

台石正面 クリックで大

左側面は撮影できません。次の記録があります。

左側面
 霜月 吉祥日 内堀伝七・中村半次郎
        内堀伊右ェ衛門・中村八左ェ門

右側面は次の通り彫られています。

台石右側面 クリックで大

右側面
 内堀村・中村平六・山中小左ェ門
     肥沼八郎ェ門・内堀金左ェ門
 文化四丁卯天

 内堀の里は穏やかな地域でしたが、水田・耕地は狭く、決して豊かな生活ではありませんでした。江戸市中への薪炭運びによる駄賃稼ぎで補っていました。
 その生活の中での百所巡り、長期に亘る計画であったと推定します。

内堀の里と庚申塚墓地の位置図 クリックで大

 
 地蔵尊の建立された文化4年前後は、内堀の里周辺では慌ただしい空気が生まれていました。
・文化2年(1805)6月、幕府、江戸は江戸近郊の農村が荒廃し治安が悪化したため、関東取締出役「八州廻り」を設置します。
 関東各地に横行する無宿・悪党の取り締まり、捕縛のためでした。
・文化3年(1806)9月、ロシア船が樺太に来航し、松前会所をおそい、翌4年5月には利尻島に侵入し、幕府の船を焼く事件が起こります。
・文化4年(1807)、東大和市周辺では、狭山丘陵南麓の村々では浪人取締組合を結成しています。浪人の徘徊、合力銭の要求、宿泊禁止対策でした。

 像に刻まれる「天下泰平」はまさに内堀の里人の願いでした。
 この像と同じ年に、馬頭観音を挟んで左側に女念仏講中が子抱地蔵尊を建立しています。

内堀の里から移った石仏群 
③子抱地蔵尊 ④馬頭観世音 ⑤丸彫地蔵尊 
①舟形地蔵尊 ②自然石供養塔
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 (2019.07.20.記 文責・安島喜一)

 子抱地蔵尊

 庚申塚墓地

 内堀の里

 大まかな歴史の流れ 近世4