大まかな歴史の流れ 現代 昭和時代3
昭和20年(1945)~昭和29年(1954)
壊滅から立ち上がり
昭和20年(1945)4月、日立航空機(株)の大きな工場が爆撃で破壊されました。
・壊滅状況に、工場関係者も村人も、ぼう然、自失したと伝わります。
・8月15日終戦。
・9月初旬、工場に米兵士約40人が進駐して来たとします。(小松ゼノア社報130号)
・南街に住んで工場に勤務した人々は
多くが故郷ヘ帰り、一部はそのまま居住して村の住民になりました。
・村から工場に通っていた若者は農業に従事したり、
新たなチャンスの探索に乗り出しました。
・村人は畑作農業に力を入れ、農業は息を吹き返しました。
大和村青年団の結成
・昭和21年(1946)11月、大和村青年団が結成されました。
戦争協力団体とも言われた官制の大日本青少年団とは様変わりです。
社会奉仕活動、文化活動、産業の普及、体育活動が目的となりました。
食糧難に困窮の村人に、お粥の炊き出しをして元気づけました。
物資不足、配給制度危機、物々交換
復興に向かう中、戦後の物資の調達は厳しく、主食の配給制度は危機になりました。
・八丁堀から疎開して狭山に住んだ我が家は近くの農家から
種芋や芋づるをもらい、ダイコン飯で過ごしました。
・母親は少しばかりの着物を持って農家を訪ね
薩摩芋やじゃが芋と取り替えて貰って飢えを凌ぎました。
・南まちの人は知り合いも少なく、わずかなつてをもとめて
新しい包丁や着物、簡単服、本、画集などを持って農家を訪ね
野菜などの食物と交換してもらいました。
その時の様子を『東大和のよもやまばなし』の「日立だんなと日立乞食」が伝えます。
新制中学校の建設
・昭和22年(1947)、教育制度が変わり、小学校6年、中学校3年の六三制となりました。
・今まで、小学校6年、高等科2年であったものが
・高等科を廃止して、3年制の中学校となりました。
・財政貧困な村、急に、校舎の建設はできません。
小学校の校舎を借りて開校
最初の中学校は現在の第一小学校の教室の一部を借りて出発しました。
・昭和22年(1947)4月1日、設立許可
生徒数425人 学級数9学級 職員数8
・昭和22年(1947)5月10日、大和小学校の校舎を借用して開校式を行いました。
4教室で9学級の授業です。仕方がないので、始めから二部授業になりました。
父兄会・PTAは改善を求めます。
南街にある、旧日立青年学校の教室を借用して正規の授業を行うことになりました。
旧日立青年学校の教室を借用
昭和22年(1947)9月8日、旧日立青年学校の教室を借用、移転しました。
新しい机と椅子が入ったのは9月の16日という状況でした。
その後は
・昭和23年(1948)12月26日、旧日立青年学校の校舎を買収
・昭和24年(1949)1月4日~7日、生徒父兄総掛かりで校庭整備
・昭和24年(1949)10月2日、青年団が奉仕作業で砂場を完成。
と言うことで、ようやく整備が進んできました。
米軍大和基地問題 移転
ところが、いきなりです。
昭和27年(1952)、近くに米軍大和基地を建設するとの通知を受けます。
・在校生も村長に反対の要望をします。
・PTA、村は総力を挙げて国、東京都に反対運動を続けます。
・しかし、基地建設は決定してしまいました。
・その過程で大和村は大和町になりました。
・町は中学校の校舎の移転を決め、現在の第一中学校の地(奈良橋)に用地を購入しました。
・昭和30年(1955)、新校舎建設開始、昭和32年(1957)校舎完成。
・昭和31年(1956)3月4日、新2年生、3年生が新校舎へ移転しました。
・生徒数968 学級数18 職員数35でした。
・移転の時には、生徒ひとりひとりが徒歩で、椅子などを運びました。
西武上水線の開通
現在の東大和市、玉川上水駅ができるまでの歴史です。
昭和20年代はじめ、大和村には、村山貯水池の建設に伴って設けられた
武蔵大和駅しかなく、北東部に偏在していました。南部は空白です。
その村に、鉄道が敷かれます。
・昭和19(1944)年5月1日、日立航空機(株)の工場が最盛期の時です。
・小川~日立航空機立川工場間(4,520㍍、現玉川上水駅)を結ぶ
・工場の専用鉄道が開かれました。
・運転業務は西武鉄道に委託していました。
・終戦後、専用鉄道は一度、日興工業(株)の所有となり、
・昭和24年(1949)5月31日 西武鉄道への譲渡されます。
・昭和25年(1950)5月15日 小川-玉川上水駅間を上水線として開業しました。
・非電化=ガソリンカーでした。
・青梅橋駅(現東大和市駅)を開業します。
・昭和29年(1954)1月12日 電化されました。
・昭和37年(1962)9月1日、小川~萩山間が開通、
西武新宿~玉川上水駅間を直通運転が開始されました。
写真のように、単線で青梅街道と平面交差でした。
踏切で手旗を振って整理する人の小屋がありました。
米軍大和基地
昭和27年(1952)9月25日、農林省から村に、突然
下記の通知が来ました。
・西武鉄道の所有地を立川飛行基地の拡張米軍用地にするため調達する、とのことです。
・そこには大和中学校があり、村は総力を挙げて反対運動をしました。
・しかし、昭和27年(1952)11月14日、閣議で基地の建設は決定され、
・昭和29年、兵舎が完成。
・昭和31年(1956)2月24日、極東空軍大和基地として開設されました。
・国や関係機関と折衝を続ける時、
・村は、ことごとく東京都との事前折衝と半ば許可が求められました。
・村長を始めとする村の為政者は
「こんな中途半端ではやっていられない」
との印象を強く持ち、町への転換を意識したと語られます。
村が、基地問題に揺れ動いているとき、地方自治の面で新しい動きがありました。
小規模な村々を合併して行政効率を上げようとするものです。
昭和28年(1953)9月、「町村合併促進法」が公布されました。
待ってましたと、早速、村は対応しました。でも、
・法律の目指すのは合併です。
・村人は村の実態から、独自で町になることを望みました。
・強い意志が示され、関係機関との調整が続きました。
・運動が実って
・昭和29年(1954)5月3日、憲法記念日を選んで、「大和町」となりました。
その町に、東京の膨張のあおりが待ち受けていました。
人口急増、無秩序な住宅地化への対応に追われます。
次へ続けます。
(2021.09.13.記 文責・安島喜一)
現代 昭和時代4