4中世(東大和市の歴史・略年譜)

4中世(東大和市の歴史・略年譜)

1063(康平6)
・御霊神社の創建
 村山貯水池に沈んだ宅部(内堀)に、鎌倉権五郎景正の家臣寺島小重郎が創建したと伝えられる。(多摩湖の歴史p205)
 現在は、貯水池移転により狭山神社に合祀。

御霊神社旧地と配置図 クリックで大

1083(永禄3)~1087年(完治元年)
・後三年の役 武蔵武士団も従軍したと考えられる。

中世初期の村山党
東大和地域はどのようになっていたのか?
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1112(天永3)
・ 三光院創建
 村山貯水池に沈んだ上宅部に創建。開山円長が没した。『新編武蔵風土記稿』
 寺伝では開山は1357(正平 12) 年 (延文2)年とする。

現三光院本堂(貯水池の建設により清水四丁目1232に移転)

1159(平治元)
・円乘院創建
 狭山の円乗院の開山法印賢誉が入寂した。『新編武蔵風土記稿』
・円乘院住職墓地に碑がある。

円乗院賢誉墓碑(右端に一世 法印賢誉 平治元年巳卯二月八日と刻まれている)

1214(健保2)6月吉日、
・清水の氷川神社(現・清水神社)が創建
 石井美作(いわいみまさく)の名あり 。棟札の写しあり。(『狭山之栞』 p52)

氷川明神棟札

氷川明神(氷川神社)旧位置 クリックで大

1221(承久3)
・承久の乱
・金子・宮寺・勝呂・山口・仙波・久米など村山党の武士ほとんどが北条方として参戦した。

1283(弘安6) 
・弘安六年三月銘の板碑(東大和市最古)が五十嵐家の墓地にあった。
 但し、自転車で持ち去られたとする。(『五十嵐考』)。

1294(永仁2)
・現存東大和市最古の板碑(東大和緑地出土)
 東大和市郷土博物館にて展示。
 刻まれた種子から狭山丘陵の峰に浄土教の世界が広まっていたことを伝える。

永仁2年(1294)板碑 クリックで大

◎この頃、丘陵の谷ッに人々が散住、郷村を形成したか?

1333(元弘3)
元弘の変
・5月8日、新田義貞が新田庄生品神社(群馬県太田市)で、一族150余騎で挙兵、鎌倉街道上道を南下
・5月11日~12日、小手指ヶ原・久米川合戦
・5月22日、鎌倉を陥す⇒鎌倉幕府滅亡。
 将軍塚に元弘の板碑(東村山市)がある。
 義貞に従軍してきた上野国の武士飽間一族で戦死した者を供養する。

1336(建武3)
・芋窪の豊鹿島神社に建武3年(1336)の銘がある大鐘が奉納されていたとの記録がある。

1357(正平 12) 年 (延文2)年
・6月1日、東大和市三光院開山快光法印入寂とする、寺伝。
 開基の石井美作は延文4年(1359)に没、寺伝。
・『新編武蔵風土記稿』では、天永3年(1112)5月3日、「三光院開山円長没す」とする。

1368(正平23 )年 (応安元)年
・貞治7年4月19日銘板碑 南無阿弥陀仏 狭山霊性庵にありとの記録が『新編武蔵風土記稿』、『狭山之栞』p32にある。
 この年になっても「貞治7年」の年号を使用していることに注意

貞治7年板碑

・普済寺で経典を出版
 助縁者として「宅部美作入道貞阿」「高木二郎左衛門入道」が記載されている(『多摩のあゆみ』118p45)

1374 (文中3)年(応安7)年 
・村山党解体 一揆に再編した時代
・8月9日、仙波信綱が一族の某と村山郷(武蔵村山市・瑞穂町)内の地頭職をめぐって争い、勝訴。
  (『東村山市史上』p436 資料編古代・ 中世p548)(『川越市史第二巻中世編』p299)
 武蔵村山市・瑞穂町付近の一部を、仙波氏が地頭として統治した事を示す。東大和市域はどうなっていたのか?

1403(応永10)年
・応永10年銘五輪塔(蔵敷)(『生活文化財調査』 p90)

応永の五輪塔

1407(応永14)年
・正福寺地蔵堂(東村山市)創建。
 弘安元年(1278)、北条時宗(時頼)創建の伝承を持つ。
 棟札に「応永十四年」「武州多東郡宅部郷金剛山正福寺」の墨書がある。

正福寺地蔵堂(東村山市)

1417(応永24)年 上杉禅秀の乱終結
・1月20日、関東管領上杉憲基施行状が発給された。
 「宅部下総入道」が「立河駿河入道」の庶子「立河雅楽助」 に
 「土渕郷田畠・在家・河原等」を「還補」するのに立ち会っていることがわかる(『多摩のあゆみ』118 p64~79)(『立川氏館跡』p336)
 立河雅楽助に還補された土地は日野市栄町地区に存在したと想定されている。(『多摩のあゆみ』118 p64~79)
 ◎宅部下総入道は宅部のどこに住んだか?

1439(永享11)年 
・永享の乱が終息。
・奈良橋雲性寺堂宇建設との伝承あり。
 天正元(1573)年、法印承永が再興、元禄年間(1688~1703)に、地頭石川太郎右衛門が新伽藍を整備している。

現・雲性寺本堂

1457(長禄元)年
・4月18日、太田道灌築江戸城完成、居城とする。同年、河越城(上杉氏)、岩付城(道真)完成。

1466(文正元)年(寛正7年2月28日に文政に改元)
・10月3日、豊鹿島神社現本殿創建
 棟札に墨書銘あり、大旦那・源朝臣憲光、武州多摩郡上奈良橋郷と記されている。
 都内最古の室町建築物。

豊鹿島神社本殿

1558(永禄元)年
・蔵敷熊野神社創建
 ・内野家の伝え 蔵敷1ー1367に鎮座する巌島神社が永禄年間(1558~1572)前後の創立から、同一時期に創建と推測。
 ・小島蔵之助氏古文書 創建は天文2年(1533)、社殿の造営は寛永 6年(1629)11月と記されている。

現・熊野神社(蔵敷)

1559(永禄 2)年
・2月12日、北条氏康「小田原衆所領役帳」を制定。
・北条氏が支配下の所領を書き上げた。中に、「他国衆」として三田弾正綱定、山口平六などの名が見える。
・山口平六 四拾貫文 山口内 大かね(鐘) 藤沢分 小野分(北野か?)とあり、地域が限定されている。
 東大和市域は氏照の支配下にあったのか?

1560(永禄 3)年
・3月、三光院梵鐘作られる。
 梵鐘は永禄三年三月建、正徳二年四月鋳替
 安永九年九月、古鐘は峯薬師へ売渡し現存のものは新鋳。惣高龍頭迄四尺六寸口径三 尺五寸。(『狭山之栞』p57)

1561(永禄 4)年
・2月、長尾景虎、厩橋城(前橋市)から小田原城に向けて出陣、帰途、武州六所明神に参詣との記録あり。(「謙信公御年譜」)
・7月、北条氏、三田綱定を滅亡させる。支配領域は氏照が由井領に加えて勝沼領を領有。(『黒田北 条一族』p156)

武蔵六所明神(現・大国魂神社)

1564(永禄 7)年
・5月23日、氏照が勝沼城主三田綱秀の旧臣三田、師岡の二人に朱印状を送り、三田氏の旧臣41人に対し清戸の番所勤務を命じている。
 午前8時前に箱根ヶ崎に集まり、清戸番所の警備に付けとの命令である。狭山丘陵の北側を通ったのか、南側か?

1569(永禄12)年
・9月、武田信玄、大軍をもって信濃を経て碓氷峠から上野に入り、鉢形城、滝山城を攻め(拝島大師に陣)、ついで小田原城を攻む。
・10月1日、廿里(とどり)で合戦、10月2日、滝山城攻め。3日には小田原に向かう。(『よみがえる滝山城』p29~30)

滝山城跡

・清水村氷川神社御神体絵馬に永禄十二年の記載あり。
 神体とするもの絵馬の如にして、表は素盞烏尊、稲田姫、猿田彦、左右に貌狛(ぼうはく)を彩色にて写したれども、
 剥落してかすかに残れり、永禄十二年 (1569)の裏書あり、図下に載す、(『新編武蔵風土記稿』)

清水村氷川大明神御神体絵馬 『新編武蔵風土記稿』多摩郡p272 クリックで大

・蔵敷厳島神社創建伝承あり(内野家) 小島家では天正6年(1588)とする。

1573(天正元)年
・東大和市雲性寺を法印承永が再興、
 元禄年間(1688~1703)に、地頭石川太郎右衛門が新伽藍を整備との記録あり。
 永享11年(1439)堂宇建設の伝承あり。

1576 (天正4)年
・鹿島神社棟札 武州多東郡上奈良橋郷
 大旦那と思われる位置に 細野主計殿 番丈衆十人御力合と墨書されている。

豊鹿島神社改修棟札
細野主計殿 番丈衆十人御力合と墨書

1582(天正10)年
・3月11日、武田勝頼が信長に攻められ天目山の戦いで敗れ、武田氏滅亡
 このことを契機として、武蔵村山市には武田家遺臣の来応が伝承される。長円寺縁起=武田家旧臣波多野氏が再興
・4月12日、甲斐から落ち延びてきた武田勝頼の家臣・加藤丹後守景忠と夫人、一族が箱根ヶ崎円福寺で自害、位牌、墓石が残されている。
 墓石には4月11日討ち死にしたことを記す。(『武蔵村山市史』上p689)
・6月2日、本能寺の変、織田信長没。
・12月27日、北条氏照が武田の家臣宮谷衆の小坂新兵衛に「村山の内立川分」の地を与える朱印状を出している。

1584(天正12)年
・3月13日、村山土佐守・村山雅楽助が阿豆佐美天神社を再修する(『武蔵村山市史』上p701)

現・阿豆佐味天神社(瑞穂町)

1590(天正18)年
・1月、氏照ら小田原城に籠城
・4月、秀吉、小田原城を取り囲む。
・4月27日 江戸城開城
・5月19日 山口平内、武州岩付城に籠城し、豊臣方浅野長政らに攻められて討死す。(古戦録)
・5月22日 岩付城開城
・5月 河越城開城
・6月14日 鉢形城開城
・6月23日 八王子城開城 
 24日 前田利家八王子城下に禁制
 27日 木村常陸介 八王子城の降人を在地に還住させる
・8月1日、徳川家康江戸城に入る
 杉本家28代勘解由種繁(寛永13・1636年6月14日没)が次のように記します。
 当代天正18年7月以前は小田原北条の領であったが、同年7月以降は徳川の領となる。
 この改革事務一切に関与したのである。(『代々のかがみ』)

八王子城跡

1591(天正19)年
・5月、家康の直属家臣である地頭酒井実明が芋窪村と高木村450石(領地)を給せられる。
 これを機に、狭山丘陵の谷ッを中心に散在していた集落を一定の区域で区切り、村がつくられた。
 芋窪、奈良橋、高木、後ヶ谷、清水村の名前がついた。

村切図 クリックで大

・7月、江戸城修築開始
・11月、清水村氷川大明神(氷川神社)に家康から5石の領地が与えられた。
 字中田の田4枚分、二代秀忠、以後10通、合計11通の朱印状が現存する。
・11月、清水村三光院に家康から3石の領地が与えられた。(『新編武蔵風土記稿』)
 三光院には家康からの朱印状を含め、12通の朱印状が保管されている。

徳川家朱印状 氷川大明神

 1592(天正20)年 (文禄元)年
・2月、奈良橋村(蔵敷村を含む)が石川太郎右衛門の采地に属す (明治13年蔵敷村誌 『町史研究』4p54)
・2月25日、芋窪村、奈良橋村、高木村を旗本石川太郎右衛門、酒井極介(極之助)、同郷蔵の知行分けの文書あり。(『所沢市史史料』 p628)
・地頭は村に陣屋を設け、家族とともに住み、江戸城へは馬で通勤登城した。

 近世に続けます。

 東大和市の周辺を含めた出来事は 略年譜 中世 に記します。

 (2021.05.08.文責・安島)

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