農兵調練場1
農兵調練場1
蔵敷の「三本杉」「山王様」。
庚申塚、9小から南、芝中団地の北側になります。
こんもりとした三角地です。
鳥居の前に「蔵敷調練場跡」の説明板があります。
東大和市旧跡 蔵敷調練場跡
所在 東大和市蔵敷二丁目
指定 昭和五十五年四月一日
江戸時代末期は日本全体が混乱し、治安が乱れている。このため、文久3(1863)年、この付近を治めていた韮山代官江川太郎左衛門は、治安維持のため、また頻繁に起こる百姓一揆鎮圧のため、村役人級の農民を農兵に編成し、小銃を貸し付け、農業の合間に軍事訓練を行った。農兵に軍事訓練を行なった場所を調練場といい、この付近一帯がその場所であった。
東大和市教育委員会
説明は至って簡単ですが、さて
「農兵って何?」
「なんで軍事調練をするところがここにあるの?」
「説明にあるこの付近一帯って、どこ?」
と、疑問が尽きません。
QRコードは東大和市のHP表紙に入ります。
農兵って
・農民が鉄砲を持って、いろいろ訓練をして
・国防と地域の治安維持に役立つ
・調練場はその訓練をするところ
とされます。
・この農兵が設けられたのは文久3年(1863)で
・まさに異国船来航、一方で、飢饉、無頼の徒の往来と
対外緊張と地域不安が重なる時期でした。
異国船渡来と混乱
少し遡ります。
・天保8年(1837)6月28日、アメリカ船モリソン号が浦和に現れて
・幕府に、日本の漂流民7人の引き取りと貿易、交流を求めました。
・浦賀奉行が異国船打払令で対応、モリソン号は引き返しました。
・7月11日、武装を解除したモリソン号は薩摩に入港して、
・藩主に漂流民送還と交易開始を求めます。
・しかし、薩摩藩も威嚇砲撃をして、モリソン号は去りました。
この対応には、国内からも批判が出ます。
◎これを機会に、幕府は対外対策に追われます。
・頭角を現したのが伊豆韮山に本拠を置き、
・狭山丘陵一帯を治める代官・江川太郎左衛門(英龍)でした。
・江戸湾防備策を献上し、天保10年には浦賀水道周辺の調査を命じられます。
江川家
・江戸市中でも不安が増し、
・農村では飢饉も重なり無頼の徒が往来して、地域不安が増幅されます。
・天保5年(1834)11月、狭山丘陵の村々に打ち毀しの張り札が出されます。
・天保7年(1836)、疱瘡が流行、死者多く、一揆の流言飛語が飛び交います。
・天保10年(1839)5月、江川太郎左衛門(英龍)、伊豆の国に農兵を設ける提案。
(「伊豆国御備場之儀に付申上候書付」)
・天保13年(1842)7月、異国船打払令を改め、天保の薪水給与令を布告。
・同年8月、川越、忍の両藩に相模、房総沿岸の警備を命じました。
・嘉永2年(1849)5月、英龍は農兵の設置を幕府に提案します。
・幕府は慎重で、結論は出ませんでした。
ペリー来航
・嘉永6年(1853)6月3日、ペリーが黒船を引き連れて来航。
・修好と通商を求め、モリソン号の時とは異なり強硬です。
・6月9日、久里浜に上陸、幕府、アメリカ大統領の親書を受け取り
ペリーは、再来を約して江戸湾を去りました。
・江戸湾防御が緊急の課題となり、台場の築造を進めます。
・嘉永6年(1853)7月、大筒車台用材として青梅村の欅類を伐りだし、江戸湾に運搬。
・嘉永6年(1853)9月、狭山丘陵の幕府御用林から、松材を伐り出し、
・東大和市域の村々の村人達は伐り出しに従事。
・嘉永6年(1853)12月、幕府が江川太郎左衛門に反射炉の築造を命じます。
・嘉永7年(1854)1月9日、ペリー再来航、通商開港の回答を要求。
・嘉永7年(1854)1月18日、村には「異国船渡来につき、取締方の義御回状」が届きます。
「このところ相模の国浦賀辺りに異国船が来ているので、・・・・組合村々は、よく申し合わせ(相談し)て取り締まりをせよ。もし疑わしき者あるいは長脇差しを持った者を見かけたら、直ちに差押さえ(捕らえ)、もよりの関東取締出役の廻村先へ届け出よ。
人気不穏という虚につけ込んで、悪徒たちが村々へ立ち寄る可能性があるので、(村人)たちは理由のない外出をせずに、火の用心に心を配り、お互いに相談して、村ごとに取り締まりをせよ。」(『里正日誌』7p22)
・嘉永7年(1854)、後が谷村(狭山村の前身)が幕府から
御用船の用材に神明社の欅を伐るように命ぜられました。
村人は反対。最終的に江川代官の命により切り出しました。
江川太郎左衛門
◎江川太郎左衛門(英龍)は、「海防策」と「農兵」の建議を続けます。
・農民に鉄砲を持たせて訓練し、国防と地域の治安維持に資するとします。
・老中・阿部正弘は江川(英龍)を幕府の要職にすべく江戸出府を求めます。
・江川太郎左衛門(英龍)は、病の中を江戸に出て尽くし、
・安政2年(1855)1月16日、亡くなりました。
◎跡を継いだ英敏がその志を引き継ぎ運動を続けます。
・英龍の意を受け国防と代官の任務をこなすなかで、
・安政3年(1856)6月1日、芝新銭座に大小砲修練場を開設、
・安政5年(1858)、韮山反射炉製の鉄砲試射にこぎ着けます。
・文久2年(1862)英敏は亡くなります。
◎跡を英武が継ぎます。
・農民に武装させることは士農工商の身分制度を揺るがすことであり、賛否両論でした。
・しかし、対外、対内状況はさらに緊迫しました。
◎文久3年(1863)10月6日、幕府はついに、江川太郎左衛門(英武)の支配地(武蔵、相模、駿河、伊豆)に限って農兵を置くことを決定しました。
農兵の仕組みは?
調練場ってどんなもの?
なんで、ここに?
長くなるので、次に続けます。
(2022.01.23.記 文責・安島)