血とりとつつじ山
5月になると狭山丘陵はツツジの花で埋まったと伝えられます。東大和市はツツジを市の花としています。それが、現在では余り見かけなくなりました。
今日の紹介は大正から昭和初年の頃の伝承です。山懐に抱かれるように集落があり、狭山丘陵の南には一面に広がる畑があって、人びとが日々その間を行き来して居た頃です。ツツジを巡って、不思議な話が伝わります。「血とりとつつじの山」と題されています。
「山にはエラ(たくさん)、つつじがあったなあ。五月になると、そりゃきれえだった。原の方からも見に来たもんな」
湖底の村で生れたおじいさんは目を細めます。貯水池が出来る前は、狭山丘陵一帯に山つつじが自生して毎年淡赤い花を咲かせました。その頃になると子供たちは、ついつい花に引かれて山へ入りたくなります。親たちは心配して、
「血とりが出るだから、ひとりで山へ行くでねえよ」
と、止めます。血とりは子供をつかまえて、血を取ってしまうのだというのです。
「血とりは箱を下げてるだよ」
ちょうど肩から箱を下げた見知らぬ人でも来ようものなら、子供たちはバラバラ、バラバラ先を争って逃げたものです。物売りか、植物採集の人だったかも知れません。
「血とりがこの道をこう行った」 「あの麦畑の所にいたとよ」
噂が口から口へ伝わると、子供たちは背筋をぞくぞくさせました。山は子供たちの楽しい遊び場です。つつじを取りに近くの友達と連れだって出かけて行きました。つつじは枝ごと折って来て、花だけ集めて塩で揉んで食べました。うすら甘くておいしかったそうです。紫色の花は毒だと言われていました。女の子は赤い花をおさんかくしの茎に通したり、紐や糸に通して、たすきにしました。それは着ている紺の絣(かすり)によく似合いました。
山つつじは、二メートルぐらいにも成長しました。貯水池が竣工した当時は、今のように桜が呼びものではなく、むしろ、つつじ見物を謳ったと言います。
あんなに美しかったつつじがなぜ今のように少なくなったのでしょう。花盗人が荒してしまったのでしようか。ある人は、戦中戦後の燃料不足の時にそれこそなめるようにしたくず掃きや、粗朶づくりのせいで、苗が鎌で伐られたことも一因かも知れないと言いました。
昔は山の木を薪にするためよく伐ったもので、大木にしなかった為に陽がよく射し込んでつつじが大きく育ったとも言います。今は木を伐ることもなくなったので、つつじが伸びないのだそうです。
いろいろな原因があってのことでしょうが、燃えるようだったという美しいつつじの山が、また戻ってくればいいと思いますね。」(『東大和のよもやまばなし』 p155~157 一部省略)
一度なくなったツツジも少しずつ復活しています。芋窪の鹿島台では一帯を覆い、そこから村山貯水池の堤防の下を通って埼玉県側の慶性門付近に達すると、この地域でも見事な株が見られます。
「血とり」の伝承は遠い話になりましたが、淡い独特の色合いのツツジが見られる頃、お子さん達に話すと目をクリクリさせます。
それにしてもこの話、狭山丘陵全体にわたって伝えられているのでしょうか。東大和市では、箕作(みのつくり)の話と一緒に伝わっています。
(2017.07.04.記)
71つつじの頃 その一、みつくりの話
その三、玉湖神社の祭