繭(まゆ)
「何だろう・・・?」
首をかしげながら考えます。芝中団地(東大和市・ 蔵敷)の中程に位置する芝中・中央公園の一隅です。
台座の周りを見るとポコリ、ポコリと何やら半分顔を出しています。
「何かに似てる・・・」
「お蚕さんだ」
半分顔を出しているのが「まゆだま」と気付きます。
「繭」(まゆ)と名付けられたモニュメントです。解説プレートには次のように刻まれています。
タイトル:繭(まゆ)
サイズ:H2000×W700×D700センチメートル
(作品紹介)
「昔、東大和市の農家では、養蚕(ようさん)が盛んに行われていました。養蚕とは、蚕蛾(かいこが)の幼虫である蚕が作った繭(まゆ)を糸にして売るために蚕を飼育することです。
昔は、農作物だけでは収入が少なく、不作だと半年や一年は苦しむこともあったため、養蚕は農家にとって貴重な収入源にもなっていましたので、蚕のことを「オコ様」とか、「カイコ様」と呼んでいました。
そのため畑には蚕の餌になる桑が一面に広がっていました。蚕を飼っている農家では、特に七月の下旬から八月二十日頃までは初秋養蚕で忙しく、九月は晩秋養蚕で大わらわでした。」
東大和市域内の村々では、江戸時代から木綿織りと養蚕が行われていました。モニュメント「繭」が語る養蚕は、大正から昭和にかけて、「村山大島」として絹織物の生産が急増した時期のことと思われます。
昭和13年(1938)の大和村全図を見ると、狭山丘陵南麓の居住地を除いて南は一面に桑畑が広がっています。村山貯水池内でも斜面には桑畑が連なっていたと伝えられます。いかに養蚕が盛んであったかが偲ばれます。
しかし、養蚕は蚕を育て、繭をとるまでの厳しい作業の積み重ねで、生糸や織物のように付加価値がつかず、当時の農家の皆さんは一番苦労が多い部分を担ったことになります。その作業を『多摩湖の歴史』は次のように記します。
一月、山林の落葉(ナラ・クヌギ・マッ)を運び、風呂湯をかけて腐らせる。
まゆを収穫。
この作業は一年間を通じて繰り返されました。休む間もない、忙しくキツイ作業の連続でした。
奈良橋の八幡神社、男坂を上り詰めたところの大欅の根元に小さな祠がまつられています。現在は新しくなっています。
かっては、素朴で、蠶影社(こかげしゃ)と刻まれていました。厳しい生活環境の中で、まゆが無事に育つように精一杯の願いを込めてまつったであろうことが偲ばれます。モニュメントの置かれた芝中・中央公園からは30分ほどのところです。
また、『東大和のよもやまばなし』には、「村山絣」「愛染様」「機場(はたば)遊び」が採録されて、絣の考案者、糸染め、織り手などについて伝えます。
村山貯水池下堰堤の広場には、綿織物の時代を表すモニュメント「木綿絣」が置かれています。