高木の塩釜様
「高木神社の本殿に向ってすぐ右隣に、一まわり小さなお社があります。これが塩釜神社ですが、村の人たちからは「塩釜様」と呼ばれて親しまれてきました。塩釜神社は総本社が宮城県にあって、昔から安産守護の神様として、広く知られていますが、高木村の塩釜神社はその分社にあたります。」
『東大和のよもやま話』は塩釜神社についてこのように語り始めます。そして由来について続けます。
「昔、江戸の末ごろ、高木村の天領名主に尾崎金左衛門という人がおりました。医師も助産婦もいないころですから、お産のために赤子や母親が死ぬことがあり、お産といえば家族みんなの心配ごとでもあったのです。名主の金左衛門は、深く心を痛めて、遠路旅をして、陸前国塩釜村の塩釜神社へ安産のお護礼(おまもりふだ)をいただきに行ってきました。そしてお護礼を屋敷神としてお祀りしておりました。この旅には、蔵敷村の小嶋蔵之助さんのご先祖も同行されたと小嶋家では言い伝えられ、お護礼が表具(ひょうぐ)として残っております。」
小島家ではその旅の年代を「享保二十年(一七三五)のころ」と伝えます。享保の大飢饉を経て、農村は疲弊しそこから立ち直ろうとする時期でした。新田開発した畑地に検地が行われ、村としての整備が進み始めていました。
それから130余年後、塩釜神社は大きく変わりました。『東大和のよもやま話』は続けます。
「やがて時代が変り、明治になると、尾崎金左衛門は 「一軒の家には、長い間に栄枯盛衰があり、後の世までお祀りできるかどうかわからぬ。」 と考えて、屋敷神を高木神社の境内に移しました。
八幡神社の押本梅麿氏の筆で、明治10年にこの地に塩釜神社を勧請したいわれが残されています。これから後、金左衛門の屋敷神は高木村の神社として管理されることになりました。
高木村に塩釜様が祀られるようになると、このあたり五里四方から人びとが参詣にくるようになりました。嫁たちは妊娠すると必ず塩釜様へお参りして、お護礼、お饌米(おせんまい)、お灯明に使ったろうそく、麻ひもなどをいただいて帰ります。無事に安産すると、お礼参りをして絵馬を奉納しました。
本殿の右うしろに絵馬堂があって、何十年かの間に納められた絵馬が山のように積んであります。昔は大晦日の夜に古い絵馬を燃す行事がありましたが、後には、節分の夜に境内の大けやきの根元で絵馬を燃やしました。」(p16~17)
『東大和のよもやま話』はこのように高木の塩釜様の謂われを語ってくれます。個人の屋敷神が村の神社となり、村外からも信仰される過程は関心を深めます。背景にはさらに複雑なものがあったと想定できます。
明治新政府が進めた廃仏毀釈、神社の合併策は、東大和市域では、明治2年一斉に神仏混淆の状況の調査が行われ、整理、分離が進みます。
名主尾崎金左衛門はこの渦中にありました。名主も村人も、やがて来る名主制度の廃止、村の機構の変革、塩釜神社の分社という社格、村人達の高まる安産守護への信仰・・・等を見越して、村持ちとすることに同意したと考えられます。さりげなく語られる物語の中に、明治の変革の一端がはっきりと残されています。
(2017.08.14.記)07
塩釜神社
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