両墓制(りょうぼせい)(狭山霊性庵)
現在では、人が亡くなった場合、葬儀社やその他の機関を通じて火葬をして、その後にお葬式をするのが普通です。ところが、東大和市内でも昭和36年(1961)以前は、遺骸を焼かずにそのまま土葬して、お寺で供養することがありました。ここで紹介することはなおそれ以前のしきたりです。
この地方では人が亡くなると、共同の「埋め墓地」に葬り、お参りする「お墓・参り墓」は別の箇所に設ける風習でした。これを両墓制(りょうぼせい)と呼んでいます。墓地によっては現在でも、かってのしきたりを想像できるところもありますが、ほとんどが難しくなりました。
そこで、今回は、両墓制が行われていて、それを廃止して、五輪塔をまつり、その経過を綴る碑を紹介します。狭山の霊性庵の一角です。
「両墓制の墓は遺骸の埋め墓(第一次の墓地)と追善仏事を経た祖霊を祀る祭り墓(第二次の墓地)とそれぞれ別に置かれたものである。市の土葬禁止が実施された現在、両墓制の墓はその存在の意義を失い、必要としなくなったとも云えるのである。
嶺松庵の一角に在る当墓所は大正六年故〇〇外三十五名が多摩湖の湖底の村となって宅部郷狭山村を離れ、共同して土地を求めて墓地を設け、先祖の遺骨や墓石又堂を移したものである。
市編纂「多摩湖の歴史」によれば、西楽庵地蔵堂(カサ堂)に故〇〇外十一名の部落の墓地があり、堂共に嶺松庵墓地に移したとある。爾来今日七十有九年の星霜を経て、嶺松庵観音堂の改築と墓地の造成が行われる期に鑑み、当墓地の使用者四十一名が相謀り、旧来の埋め墓を排して遺骨を発掘し焼骨して合祀し、跡地を新墓地として造成することになったのである。
茲に五輪宝塔を建立供養し、先祖の諸霊を祀って永劫の安きを祈り奉る。往時を偲び謹んで碑文を撰する。
三光院住職 大寿 誌」
違った経過ですが両墓制であった事を記録する碑は円乗院に接する墓地内にもあります。
葬儀、お墓問題は新しい局面を迎えています。全く次元の異なる両墓制も出現するかもしれません。
西楽庵地蔵堂(カサ堂)については将門の乱と西楽寺の不動明王像をご覧下さい。