板碑は単独、お地蔵様と一緒、覆屋の中・・・など、様々にまつられます。今回は東大和市内で江戸時代に集中して埋納されていた例を紹介します。

『狭山之栞』採録の集中埋納板碑
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狭山の杉本林志氏が著した『狭山之栞』に次のように紹介されています。

「古碑図 以上の外に十五本の折れたるあり。左の如し。右は天保年間に農民眞野三右衛門宅地続きの前山を開拓せる時掘り出したる処に立置きたるものにて外に刀一本、鋸一挺出でたるも盗まれてなし。」(p34)とします。

狭山丘陵の板碑埋納の位置図 集中埋納地と永仁二年板碑埋納地は峰続きです。 
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年代順に整理すると
正和 1312~1317(北朝年号)
正和5年 1316(北朝年号)
永和 1375~1379(北朝年号)
永徳2年 1382(北朝年号)
明徳3年 1392(北朝年号)
応永 1394~1427
応永4年 1397
応永18年 1411
応永22年 1415(2枚)
宝徳3年 1451
延徳2年 1490

不明       3

実に、約170年間余にわたります。これが一箇所に埋納されていました。このような例は多く報告されています。何らかの要因で周辺の板碑が集められて埋納されたと考えられています。

竹藪の辺りに埋納されていた。 斜め左前が後ヶ谷村名主の屋敷 中世からの定着が伝えられる
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埋納地は狭山丘陵の峰の端近くになります。実際に歩いてみると峰の所々にまつられていた雰囲気を感じます。中世、狭山丘陵の峰は板碑が諸処にまつられる地域であったのかも知れません。刀や鋸が副葬されていたことも推定されます。これらをまつった人々はどのような人々で、どのような生活をしていたのでしょうか?
(2017.10.10.記)