細長い村で茶摘み

東大和市がまだ芋窪、蔵敷、奈良橋、高木、狭山、清水の6つの村に分かれて、狭山丘陵の麓から野火止用水際まで、それぞれに細長い村であった頃の茶摘みの話です。

昭和13年(1938)の状況 空堀川以南はほとんどが桑畑の表示になっている
木リックで大

  全くの農村で空堀川から南には、青梅橋の一角を除いては人家がありませんでした。東大和のよもやまばなしは次のように語ります。

「新青梅街道から南がわは、今でこそ建物が多くなりましたが、昔は、ほとんど畑でした。川がなくて水が不足していたので、かんばつにつよいお茶、さつまいも、桑などが植えられていました。

五月になると

五月になると、お茶つみが始まります。お茶つみは女や子供のしごとでしたから、学校は休みになりました。子供たちは、わが家の茶つみがない時に、大きな茶畑のある家ヘアルバイトにでかけます。

大正三、四年ごろで、一貫匁(三・八キログラム)つむと十銭ぐらい手間賃がもらえたそうですから、みんなせっせとお茶をつみました。」

この地方の場合、お茶栽培は畑の縁に垣根のように植える畦畔茶から出発しました。そのため、多くの場合、画像の中から家を除いた景観でした。畑の全面を茶畑とするのは限られた専門的な茶業経営者でした。クリックで大

お小遣いの稼ぎ

「子供たちは、おこづかいがかせげるので、つんだお茶を畑の持ち主のところへ持っていっては、受取りのメモをもらいます。

その頃は、白い紙を使うのがぜいたくな頃でしたから、手近かにあるつけ木の白いところに、○月○日、目方○貫匁、〇十銭と書いて渡すことがよくありました。

子供たちは、つけ木の受ロ取りメモを手にして、とんで帰っていきました。」(中略)

大正時代の村の姿

統計に不確かな部分がありますが

大正5年(1916)戸数 779 総人口5052
   専業農家 591戸  兼業121戸 計712戸
   内製茶              150戸

       (出典 大和町史p445)

で、ほとんどが農家で、多くの農家が製茶に携わっていました。よもやま話はさらに続けます。

 「茶畑の持ち主は、お茶の葉を売った代金から手間賃を払ってくれるので、少しおそくなります。その間、子供たちは、何枚かのつけ木のメモを見ては、お金を計算して、おこづかいのもらえる日まで、だいじにしまっておきました。」(p85~86)

この昔話をもとに、向原四丁目に、モニュメント「つけ木受け取りメモ」が置かれています。

モニュメント「つけ木受取りメモ」 クリックで大

(2017.10.14.記)