大まかな歴史の流れ 6 現代 1明治

3行政区分の変更

 江戸から明治に移り、村は変わります。徳川幕府中心であった支配機構、行政区分に度重なる変更が行われました。政体書の公布、版籍奉還、廃藩置県とめまぐるしく変わります。そして現在の基礎が定まります。その経過を現場で追うのは結構厳しいです。不十分ですが、東大和市域を中心に整理しました。

 なお、長文になりますので、詳細は
韮山県と品川県を行ったり来たり(明治の最初に属した県)」
相次ぐ蔵敷村・小川村寄場組合の成立
明楽寺の番組会所と神奈川県所属(明治4年)」
狭山村(さやまむら)の誕生(東大和市・地租改正・明治8年)」
に書きました。このページはその経過を一覧にしたものです。画像は全体のボリュームから最小限にしました。
よろしくご了承の程お願い致します。

政体書の公布 慶応4年(1868)閏4月21日、政体書が公布され、地方支配機構が定まりました。
 全国を府・藩・県に分け、府県に府知事(知府事)、藩に藩知事(知藩事)、県に県知事(知県事)を置きました。
 府は京都、大阪、長崎、奈良、越後(新潟)、度会(現在の三重県)、佐渡、東京、神奈川、甲斐の順序で設けられました。旧来の遠国奉行の支配地にあたります。

 県は幕府直轄領(御料・天領)および旗本知行地を新政府が没収して設けました。
 しかし、この区分は長く続かず、明治2年7月17日の太政官布告第655号により、府は京都・東京・大阪の3つのみとされ、他はすべて県に改称されました。

 江戸の周辺では、この原則は適用されず、県の代わりに「知県事」を置きました。役名に「県」が入っていますが、まだ県は置かれていません。「武蔵知県事」などです。

慶応4年県の混在
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政体書が公布された当時の東大和市域の村々 当時の村は天領と旧旗本領に分かれ、地域は複雑な構成をしていました。
 芋窪村天領分 旧旗本領分
 蔵敷村
 奈良橋村
 高木村天領分 旧旗本領分
 後ヶ谷村
 宅部村
 清水村(新田分) 本田分=旧旗本領
 に分かれていました。旧旗本領分以外は全て韮山代官江川太郎左衛門の所管でした。

韮山県の設置 慶応4年(1868)6月、韮山県(政体書による県で廃藩置県による県ではない)が設置されました。東大和市域では江川太郎左衛門の所管であった天領分がそのまま「韮山県」になりました。清水村、高木村、芋窪村の旗本領であった区域は、いったん政府に没収され、武蔵知県事(古河定雄・一平、肥前藩士)に属しました。古河一平は明治元年(1868)10月、品川県知事に就任しました。

版籍奉還 明治2年(1869)6月17日、274藩主から版籍の奉還が行われ、原則として土地と人民は明治政府の所轄となりました。旧藩主は知藩事(藩知事)として引き続いて藩を統治していました。一方、徳川幕府直轄地(天領)には府と県が置かれて、新政府から府知事・県令が任命されていました。

明治2年所管換え
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品川県と所管替え 武蔵知県事に属する区域は、明治2年(1869)2月9日に品川県が設置されると、品川県に移ります。ところが、韮山県と品川県の県域が複雑に入り混じっていたことから、県の設置直後に所管する村の管轄替えが行われました。
 明治2年(1869)2月、品川県下の芋窪村と高木村の旗本領区域が韮山県に移管されました。
 明治2年(1869)4月、韮山県に属していた清水村の江川太郎左衛門所管区域(新田分)が品川県に引き渡されました。
 以上は東大和市史によります。里正日誌は更に詳しく、明治2年(1869)2月、品川県下の芋窪村と高木村の旗本領区域が韮山県に移管されたとされる区域は、4月10日に沙汰があり、6月28日頃品川県から韮山県が受け取ったことになっています。高木村分は65石、芋窪村分は165石と石数が記録されています。

 いずれにしても、この整理により、芋窪村・蔵敷村・奈良橋村・高木村・後ケ谷村・宅部村の六か村は韮山県に、清水村だけが品川県に属することとなりました。年貢の割付、助郷の負担など、相当に混乱したはずです。さらにややこしくしたのが寄場組合の再編でした。詳細は「韮山県と品川県を行ったり来たり(明治の最初に属した県)」に書きました。

明治3年寄場組合再編
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寄場組合の再編 江戸時代後期~幕末にかけて、江戸周辺の農村は治安が悪化していました。これを効率よく取り締まるため、幕府は、関東取締出役を設け、文政10年(1827)には、「寄場組合」を構成して取り締まりが効率的に行われる制度を設けました。中心になる村を「寄場」とし、周辺の数10か村を組合としてまとめました。

 東大和市域の村々は芋窪村が「拝島組合」に属し、蔵敷村・奈良橋村・高木村・後ケ谷村・宅部村・清水村は「所沢組合」に属していました。韮山県と品川県が成立して、寄場組合の編成では不都合な面がでてきました。寄場組合の再編が行われました。詳細は「相次ぐ蔵敷村・小川村寄場組合の成立」に書きました。

明治2年蔵敷蔵寄場組合
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蔵敷村組合の独立 明治2年(1869)、日常の生活面でも所沢とのつながりが強かった東大和市域の村々は、所沢寄場組合に所属していましたが、蔵敷・奈良橋・高木・後ケ谷・宅部・清水・廻り田・野口・粂川(久米川)・南秋津・野塩・中里・日比田村が「蔵敷村組合」として独立しました。

小川寄場組合の設立 明治3年(1870)3月、「青梅街道の通過点(脇往還継場)であり、役人や多くの人々が通行(御役々様御通行)する場所であるので・・・」を理由として、新しく小川寄場組合が再編、設立されました。
 構成は小川村・小川新田・榎戸新田・廻り田新田・蔵敷村・奈良橋村・高木村・宅部村・後ケ谷村・廻り田村の10か村でした。組合惣代は蔵敷村名主杢左衛門、小川村名主弥次郎、小川新田名主弥一郎の三人が担当しました。
 芋窪村は品川県に属していて、拝島組合を構成していましたが、品川県が明治2年(1869)12月、「番組制」をひいたことから、品川県15番組となりました。清水村は品川県管轄のため小川寄場組合には加入していません。

戸籍法施行による区割
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戸籍区の設定 明治4年(1871)4月4日、政府は全国の人口、戸数を把握するため、戸籍法を公布しました。戸籍の編成に当たって、従来の自然発生的な村の上に成立した、江戸時代の支配領域の入り組みを整理する必要が生じました。新しく数ヵ村をまとめて一つのグループとする「戸籍区」を設置することになりました。戸籍区には戸籍事務を扱う戸長、副戸長を置きました。

 韮山県、品川県では、従来の寄場組合と番組をそのまま「戸籍区」としました。
 ・品川県 明治2年12月18日、寄場組合を廃止、番組制度とする。そのまま戸籍区に。
 ・韮山県 明治4年5月、戸籍区を設置 戸長を決定。
 東大和市域の村々は
 小川村寄場組合(蔵敷村、奈良橋村、高木村、後ヶ谷村、宅部村)は「韮山県一の区」
 品川県第十五番組(清水村)は「品川県第十五区」
 拝島村組合(芋窪村)は「韮山県六の区」
となりました。

廃藩置県 明治4年(1871)7月14日、「廃藩置県」の詔書が発せられました。これまでの「府・藩・県、三治」制から、「府・県、二治」制にかわり、藩が廃止され、大名領がなくなりました。地方を中央が統治する政治・行政改革ともいえます。
東大和市域の村々 東大和市域の村々は結果的に神奈川県に属しました。その所属時期に若干のずれがあります。
・明治4年12月20日、韮山県に属していた芋窪村、蔵敷村、奈良橋村、高木村、後ヶ谷村、宅部村が神奈川県に
・明治5年1月29日、品川県に属していた清水村が神奈川県に
 編成されました。神奈川県には明治26年(1893)4月1日、「東京府神奈川県境域変更法」によって三多摩全域が東京府に移管されるまで属していました。

神奈川県へ所属
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戸籍区の再編成 明治4年の改置府県によって、県の管轄区域が変更になったため、戸籍区に矛盾が生じました。そこで、明治5年(1872)戸籍区の再編成が行われました。
 東大和市域内の村々は
 韮山県に属していた村、神奈川県第50区
 品川県に属していた村、神奈川県第51区となりました。(芋窪村など)
 神奈川県は11月、江戸の広域行政圏であった寄場組合が廃止しました。
 韮山県と品川県に分かれていた東大和市域の村々は全てが神奈川県に属することになりました。

大区・小区制 明治5年(1872)10月、政府は戸籍区に大小の別を設けて「行政区」として整備することを太政官布達によって命令しました。また、区には戸籍の編成を担当する戸長、副戸長を置きました。

神奈川県11区10番組へ所属
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村は番号で区分された(区番組制) 明治6年(1873)4月、神奈川県はさらに区割りと指示系統の合理化を求めて、区画改正法を定めました。武蔵と相模を20区に区分し、1区に区長1名、副区長1名を置き、戸籍だけでなく行政事務全般を取り扱うことにしました。さらに区を「組」に細分しました。
 これまでの「県」―→「区」
「県」―→「村」
 の二つの命令系統が
「県」―→「区」―→「組」
 の一系統になりました。

 東大和市域の村々は神奈川県第十一区第十番組に属しました。
 区長・戸長・副戸長は、代議人の入札(選挙)によって選ばれました。地方の有力者は政府の行政組織に組み入れられました。
 番組の会所を高木村明楽寺に設けました。人口は2,827人 戸数466戸でした。明治6年(1873)11月8日に開所したと伝えられます。東大和市域内で広域の仕事が行われた最初の場所と云えます。番組会所はその後、連合戸長役場、やがて村役場になりました。詳細は「明楽寺の番組会所と神奈川県所属(明治4年)」に書きました。

 (2018.12.11.記 文責・安島喜一)

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