円達院(東大和市の修験)

 清水村(宅部)、本山派、府中門善坊末。

 修験は村に医者の少なかった江戸時代、病気になった時、お祓(はら)いや祈祷(きとう)で村人達と深い関わりを持っていました。
 修験の持ち味それぞれの特色を発揮しますが、今回紹介する「円達院」は別当として神社を預かる役割を持っていました。
 清水村の鎮守氷川明神社の管理です。
 村山下貯水池、堰堤から手前の取水塔付近(宅部)に氷川明神社と円達院の本拠地がありました。

円達院旧地 クリックで大

 江戸時代の地誌には

『新編武蔵風土記稿』
 氷川社の箇所に
 「別当は本山修験、本郡府中宿門前功の配下にて、村内円達院持」
とあります。 

『狭山之栞』
 氷川神社
・別当は府中門善坊霞下なる照林山神宮寺圓達院にして
・昔、宮倉権之丞と云ふ人本山修験となり三覚院と號し
・其子、龍蔵院圓達坊より代々圓達院と號し、
・維新の際復飾して清水大学と改称、神官となり後に安清と改名す。」
 とあります。

『五十嵐氏考』
 長い間、清水村の名主を務めた五十嵐家の民平氏が記された一族と村の記録です。 
 天明六年(1786)、御朱印に関する社地の調査があり、その回答をした、次の記述があります。意訳します。

御朱印高五石
 武州多摩郡清水村鎮守氷川大明神別当がお守りする御朱印社地並びに別当境内社地について、田畑、山林等ご照会があり、村役人が立合い残らず相改めました。これまでと少しも相違御座いません。
 よって、連印の上ご報告致します。

武州多摩郡清水村
   氷川大明神別当
        延達院
  天明六年(1786)牛八月

 浅井小右衛門知行所
      名主 五十嵐清左衛門
      組頭 利兵衛
         七郎左衛門

 円達院が延達院になっていますが、記述の内容から円達院と解します。御朱印の対象地の実態は、このような形で調査されていたようです。

『指田日記』
 天保11年(1840)3月の記事に
 「三月三日、金十郎嫡女、庖瘡湯ながし。宅部・円達院で火生三昧(かしょうざんまい)」
とあります。
 火生三昧は、この場合、疱瘡の病魔祓い、病気回復の祈願でした。不動明王を一心に拝み、お不動さまから発する炎で悪魔を焼滅して頂く祈願とされます。村人が疱瘡にかかった時、円達院が修験として祈祷し御利益があり、武蔵村山市域の村人がわざわざ宅部の地に祈祷をお願いに来たことがわかります。

 また、円達院は脇差しの帯刀を許されていました。
 貯水池に沈んだ地域と一峰越した丘陵南麓の清水村の集落とは常に関係を持っていて、円達院はそこを行き来します。その間の出来事です。『東大和のよもやまばなし』に

「宅部の村から氷川神社の脇を登って大日堂、五十嵐墓地を通りおくまん様(熊野神社)へ続く道は、踏み跡のような細い道で、篠竹の生い茂る昼でも気味の悪い道でした。

 よそから宅部へ帰る円達院は、墓地やお堂のあるこの道を夜更けに一人で歩いていました。
 提灯を一つぶらさげた円達院は、ふと、もののけの気配を感じて脇差を抜きました。
 「出ば出ろ、宅部の円達院」と大声で叫びながら刀を右に左に振り廻して歩いたそうです。」

円達院が歩いた路
クリックで大

 とあり、脇差しを許されていたことがわかります。
 なお、現在調査中ですが、永正元年(1504)6月10日の古文書(檀那売券)に「幸ます丸」という人物が修験の檀那職を売り渡した事が読み取れます。その中に「屋けへの円達坊」の名前があり、円達院であれば、中世のこの時代に活動していたことになります。

(2019.05.29.記 文責・安島)

 東大和市内の寺院と札所

『東大和のよもやまばなし』出ば出ろ(宅部の円達坊)

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