奈良橋自由懇親会(明治14年(1881)11月21日)

 東大和市域内で行われた自由民権演説会は、芋窪村の学術演説会(昇隆学校・豊鹿島神社境内)、狭山村の自由懇親会(円乗院、高木・狭山・清水村地域)に引き続き、奈良橋村で行われました。明治14年(1881)11月21日、奈良橋学校(雲性寺)で行われた「自由懇親会」です。

会場の奈良橋学校があった雲性寺 クリックで大

参加者が狭山丘陵全域に広がった 

 この懇親会には、参加者がついに狭山丘陵の北側に及び「村山郷十六ヶ村有志者」と「埼玉県入間郡有志者」へと拡大しました。また、自由懇親会の規約も定められたようです。明治14年(1881)11月24日の『東京横浜毎日新聞』が次のように伝えています。

 「去る廿一日神奈川県下北多摩郡奈良橋村奈良橋学校に於て開きたる懇親会は、同郡村山郷と称ふる十六ケ村有志者の首唱に出たる者にして、弊社の島田も参会したり、
 此地は境を埼玉県下入間郡に接するを以て、同県下の有志者中より来会せられたる人あり、     
 折節(おりふし)此地方は地租改正の調査ありて、之に関する人には有志者の中にても已むを得す欠席せられしが、之れにも拘(かかわ)らす出席員は数十人の多きに至り、席上の演説等もありて中々盛会なりし、此会を初めとして爾後(じご)申合せの規約を定め、永く之維持するの見込なるよし」(『東京横浜毎日新聞』)

 参加した具体的な村名は不明ですが、狭山丘陵南麓の村々と北側に境を接する埼玉県の村々の有志が集まっています。当時、山口村には海蔵寺を会場として自由民権結社「睦交社」が結成されており、その方々も参加されたのでしょうか? 

 加えて、「この会を初めとして、申合せの規約を定め、永くこれを維持するの見込」として規約を定めたようです。どうにかしてその内容を知りたいです。残念ですが確認されていません。
 奈良橋自由懇親会に引き続いて、翌年2月に箱根ヶ崎村(内野杢左衛門も参加)、中藤村、5月に三ツ木村と懇親会は続けて開かれています。それらの会にこの規約が生かされたのでしょうか?

参加者が狭山丘陵周辺全域に広がった クリックで大

 この会には、奈良橋村・鎌田家に滞在していた千葉卓三郎は五日市に戻り、参加していません。千葉と意気投合した鎌田喜三(奈良橋村)が跡を継いで、中心になって活動したものと推測します。

会場は板の間と八畳二間

 自治の実現に向かって、懇親会の名で開かれた自由民権に関する学習、演説会は熱気を帯びていました。しかし、その会場は至って質素でした。
 今回の会場である奈良橋学校のイメージ図、平面図が雲性寺に保存されています。ご住職の好意でスケッチさせて頂きました。板の間敷の教室と八畳二間です。この場で熱気溢れる議論が湧き、戦わされたことを思うと、スケッチの手が震えました。

会場となった奈良橋学校 正面奈良橋学校 左下雲性寺本堂 クリックで大

奈良橋学校 板の間の教室と8畳間二間 懇親会は参加人数からこの板の間で行われたと思われる
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国会開設が約束される

 奈良橋自由懇親会が開かれる直前の明治14年(1881)10月11日、明治政府は10年後(1890年)の国会開設を約すと同時に、参議・大隈重信を解任しました。世に言う「明治一四年の政変」です。

 10月29日、自由党結党式が浅草井生村楼(いぶむらろう)で挙行され、総理に板垣退助を選出しました。東大和市域からは神奈川県会議員であった内野杢左衛門が結成大会の準備会に出席しています。時代は変わろうとしていました。それぞれの地域で湧き起った自由民権運動の結晶、実りと思われます。

 (2019.11.15.記 文責・安島)

   中和会の発足  自由民権演説会が開かれるまでの経過

 芋窪村学術演説会  狭山自由懇親会  千葉卓三郎が奈良橋村に滞在

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