高木神社の歴史(東京都東大和市)
高木神社の歴史(東京都東大和市)
所在地 東大和市高木二丁目104番地
祭 神 社殿改築記念碑では高皇産霊神(たかむすびのかみ)
『狭山の栞』 では手力雄命(たじからおのみこと)
社 名 中古 尉殿大権現(じょうどのだいごんげん)
明治2年(1869)尉殿大神(じょうどのおおかみ)
明治13年(1880)高木神社(たかぎじんじゃ)
1高木神社の創建
高木神社(たかぎじんじゃ)の創建は不明です。
神社本殿左側に建てられた「高木神社社殿改修記念碑」(高木神社護持会 平成6年・1994)は、
「高木神社の創建は古く年月は不明であるが、
宝暦八年(1785)九月に再建され、高木神社と称したが、
中古の頃より尉殿大神(じょうどのおおかみ)と称し、
明治十三年(1880)一月高木神社と改め、現在に到っている。
高木神社は高皇産霊神(たかむすびのかみ)を祭神とし、
村人の信仰篤く、爾来三百年の時が移り、
村人は産土様として社の灯火をたやすことなく村の生産と生活の心のよりどころとしてきた。」
と碑面に刻み
・宝暦8年(1785)9月に再建
・中古の頃より尉殿大神と呼ばれる
・明治13年(1880)1月高木神社と改め、高皇産霊神を祭神とする
としています。
2古文書類の記録
(1)明治3年書上げ
古文書としては明治3年(1870)、地元の名主から県を通じて出された神社報告書があります。
そこでは、祭神、勧請年記不詳、旧号を尉殿大権現、明治2年(1869)、尉殿大神とした。
神主は宮嶋岩保とし、奉幣の際は奈良橋村の修験大徳院に依頼したと記録します。
宮嶋岩保は江戸南町奉行遠山家ゆかりの武士でした。
明治新政府となり、奉公人の里である高木村に夫妻で移住し、明楽寺の庫裡で過ごしました。
寺子屋の師匠をし、高木神社の神官となり村人と交流を深めました。
夫妻の冥福を祈り明楽寺墓地に比翼塚がまつられています。
(2)江戸時代の地誌は次のように記します。
(ア)『新編武蔵風土記稿』
「尉殿権現社 除地、一畝、字砂にあり、上屋二間に三間、内にわづかなる宮を置り、前に鳥居をたつ、」
(イ)『狭山之栞』
「尉殿神社は村の惣鎮守也。祭紳不詳。伝云ふには手力雄命(たぢからおのみこと)なりと。
境内五畝廿歩除地となりしが維新の際奉遷す。祭典は毎歳九月十九日 獅子舞の神事を古例とす。
別當妙樂寺なりしが、維新以来、遠山左衛門尉家○○鐵右衛門復飾の上宮島岩保と改称して神官となる。
明治十丁丑(ひのとうし) 年四月十日傍に塩竃神社を勧請す。」
3祭神 高皇産霊神・手力雄命
(1)高皇産霊神
社殿改築記念碑(平成6年・1994)では祭神を高皇産霊神とします。
高皇産霊神については古事記が次のように記します。
『古事記』
天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天(たかま)の原に成りませる神の名は、
天の御中主の神(みなかぬしのかみ)。
次に高御産巣日(たかみむすび)の神。
次に神産巣日(かむむすび)の神。
この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身を隠したまひき。
とし、高御産巣日の神を紹介し、別の記述で、「高木の神は高御産巣日神(高皇産霊神)の別の名ぞ」として高木の神の名を明らかにします。
社殿改修記念碑は神社に高くそびえた木々、村の名前の基となった高木に根拠を置いて祭神としたとも考えられます。
村人達には生産の神と受け止められたのでしょうか?
(2)手力雄命
『狭山之栞』は祭紳不詳としながら、手力雄命(たぢからおのみこと)を伝えます。
手力雄命は『古事記』で勇壮な姿が展開し、特に天の石屋戸(いわやと)の項では
天鈿女命(天宇受売命 あめのうずめのみこと)の踊りに岩戸を開いた天照大神の手を取る役割を果たし
「天の手力雄の神、戸の脇に隠り立ちて・・・御手を取りて引き出しまつりき。」と紹介されます。
高木村の村人たちはこれらの姿に産土の祭神を重ねたとも考えられます。
神社のまつられた地域には「松や杉の大木が繁り、小平、立川方面からも森が望まれた」と伝えられます。
こんもりした森が、高木の神=「高御産巣日神(高皇産霊神)」となった根源とも考えられます。
4尉殿権現社(尉殿大権現)
高木神社は中古の時代(明治維新直後まで)、神社名は尉殿権現社(尉殿大権現)であったことが伝えられます。
その祭神は明らかではありません。近くの西東京市(上保谷、田無)に尉殿神社が祀られています。
祭神について次のように伝えています。
「尉殿神社は、元和8年(1622)谷戸にあった尉殿大権現(現田無神社)を分祀、上保谷村の鎮守として創建したと伝えられます。
祭神の級長津彦命(しなつひこのみこと)と級長戸辺命(しなとべのみこと)のうち級長津彦命を谷戸尉殿権現(現田無神社)へ遷し、
上保谷と谷戸の夫婦神としました。」
尉殿神社の本殿左に石灯籠があり、尉殿神社の御神体について次のように説明しています。
「尉殿神社は江戸時代が終わるまで、本地垂迹思想=神仏習合にもとづいて尉殿権現と称され、
上保谷村草創の頃、なくてはならない生活用水を守護する、水の神ジョードノを祀ったことにはじります。
江戸時代その本地の神体は仏教の水の守護神倶利伽羅不動明王(西東京市指定文化財第三十号「木彫倶利伽羅不動明王像」寶晃院蔵)であり、
垂迹=権現の神は龍田風神(奈良県生駒郡龍田神社)に祭神級長津彦命(しなつひこのみこと)と級長戸辺命(しなとべのみこと)の男女二座でした。
平成七年三月 西東京市教育委員会」とあります。
注
◎尉殿神社の祭神・級長津彦命について
・『古事記』では、イザナギとイザナミが国々の神産みをした後、最初に、風の神として、志那都比古(しなつひこ)を生みます。
・『日本書紀』では、イザナミが朝霧を吹き払った息から級長戸辺命(しなとべのみこと)またの名を級長津彦命(しなつひこのみこと)という神を生み、風の神とします。
◎田無神社の尉殿権現社の御神体は「金龍神」
「田無神社」は、「尉殿大権現」が北方の村から現在地に遷座(せんざ)して、明治になり熊野神社、八幡神社を合祀して名称を田無神社としました。合祀した尉殿大権現の祭神は「金龍神」で、「すべての命の源である水と、よろずの災を祓う神を司る豊饒と除災の守護神です」としています。
◎高木村の村人達は高木神社の尉殿大権現に、水と豊饒を祈り除災を願ったのではないでしょうか。
西東京市尉殿神社の倶利伽羅不動尊像は保谷市史通史編で拝見できます。ここでは、豊島区高田の金乗院慈眼寺の倶利伽羅不動尊を庚申塔に祀る像を紹介します。いかにも水の守護神らしく、両目が厳しく高木村の人々の心情が迫ります。
5高木神社の位置に留意!
高木神社は独特の場にまつられています。
東大和市内の神社は塚にまつられた日枝神社をのぞき、いずれも狭山丘陵の段丘上に位置します。
高木神社は丘陵の裾の部分で、清戸街道に面すると共に、奈良橋川と空堀川の合流点の近くに位置します。
地形的に見ると、奈良橋の八幡谷ッに通ずる低いけれど大きな谷ッが形成されていることがわかります。
中世にはこの地域は「奈良橋郷」が形成されていました。
豊鹿島神社本殿棟札に記される「上奈良橋郷」が芋窪地域で、奈良橋から高木一帯で、「下奈良橋郷」が形成されていたと思われます。
高木神社は、その谷ッと原の交わる地に治水と豊穣を司る神として祀られたことが考えられます。
6獅子舞
高木神社と深い関わりをもつのが「高木の獅子舞」です。
江戸時代より、毎年九月十九日の祭礼に奉納されました。
昔、悪疫が流行したとき、その退散を祈願して踊られたのが始まりと伝えられています。
獅子舞の道具は社殿に供えられています。
舞い手、笛、歌い手、ササラ子など関係者は社殿の隣にある社務所(明楽寺跡)で支度をととのえます。
時が来ると、行列を組み、村役の先導で笛の音とともに清戸街道を練り歩きます。
表参道となっている石段をあがって神社前庭に進みます。
篝火がたかれ、杉の大木の繁る境内で、笛の音や歌に合わせ演ずる獅子舞は勇壮なものです。
同時に道化の狐の仕草に笑いが広がります。その様子は別に書きます。
昭和31(1956)年までは、大祭で奉納されていましたが、その後途絶えて、平成6(1994)年になって復活しました。
平成10年(1998)「高木獅子舞保存会」が結成されて継続されています。
現在は毎年、ほぼ9月の第2土曜日を中心に舞われています。
獅子舞の道具一式は市郷土資料となっています。
平成25年の第44回東京都民俗芸能大会「東京~川辺の芸能」において披露されました。
(2018.05.19.記 文責・安島喜一)