清水神社の歴史
清水神社の歴史
所在地 東大和市清水三丁目-786
御祭神 素盞嗚尊・大己貴尊・稲田姫命
創 建 建保2年(1214)、江戸時代地誌は創建不詳
建 替 現社殿は平成22年(2010)に建て替えられました。
清水神社は村山貯水池建設に伴い
・大正8年(1919)年頃
・湖底に沈む氷川神社
・貯水池区域内に入る熊野神社
を現在地に遷座・合祀しておまつりしました。そのため、歴史は氷川神社と熊野神社にわかれます。
なお、昭和6年(1931)に、氷川神社と熊野神社を合祀して清水神社と改称したと村概観(昭和13年・1938)は伝えます。
1江戸時代地誌の記録
氷川神社と熊野神社について、江戸時代の地誌は次のように記します。意訳して、紹介します。
(1)『新編武藏風土記稿』
神社 氷川社 社地、村の北の方狭山の根通りにある。本社は六尺に五尺、上屋三間に二間半、拝殿五間に二間、共に北東の方に向いている、神体とするものは絵馬で、表は素盞烏尊、稲田姫、猿田彦、左右に貌狛が彩色で描かれている。しかし、剥落してかすかに読み取れる。永禄十二年(1569)の裏書がある。
この外本地佛の正観音木の座像(長さ一尺五寸ほど)がある。天正十九年(1591)十一月日、五石の御朱印がある。例祭は六月十五日である。
本社の右に杉の大樹が二株ある。囲み一丈五尺と一丈二尺ある。石階が上下ある。上は二十四段、下は九段である。此辺の鎮守で、別当は本山修験、府中宿門前坊配下の円達院がつとめている。
熊野社 除地百坪許、村の中央成就院の境内の後にある。この辺の鎮守である。本社三尺四方、上屋九尺四方、拝殿二間に九尺、共に北西に向う。神体は白幣、本地佛は観音にて、木の立像長一尺五寸である。前に鳥居を立、例祭は九月十九日。社地には松杉雑樹が繁茂している。成就院の持である。
◎注
熊野社の社地を『新編武蔵風土記稿』は「成就院の持」としています。成就院は、天正19年(1591)5月3日に、清水地域に家康の家臣・浅井五郎左衛門が地頭として配置された後に創建されました。熊野神社がそれ以前にこの地にあって、その後、「成就院の持」になったのか否かは不明です。
(2)『狭山之栞』
氷川神社は
祭神 素盞鳴尊 大巳貴尊 稲田姫命をまつる。毎年六月十五日を祭典とする。小麦の牡丹餅に麦焦をまぶしたのを供する。御朱印五石の地を賜はる。勧請年紀不詳。古時は宅部、清水、内堀、日向、境、廻田、後ヶ谷戸七村の惣鎮守であったと伝わる。
◎注
宅部、清水、内堀、後ヶ谷戸は東大和市域内、日向、境、廻田は東村山市域内です。
氷川神社創建時、周辺一帯は「宅部郷」(やけべごう)とされ、その内の上宅部の地域の状況が類推できるようです。
別当は聖護院宮御末小田原玉龍坊配下、府中門善坊霞下なる照林山神宮寺円達院で、昔、宮倉権之丞と云ふ人が本山修験となり代々円達院と號し、維新の際復飾して清水大学と改称する。神官となり後に安清と改名する。
棟札
下図二枚の棟札と元禄十四年(1701)の棟札を伝える。ただし、以上三枚、その他、弘化三丙午年(1846)二月二日に火災で類焼、焼失した。
神供の食器である高麗狗は悉く蝕まれながらも存在する。本地佛は座像の正観音像で一尺五寸、後座共三尺三寸、厨子に入っている。但し尊体は虫喰ひとなり、蓮華と後光は修飾を加へられている。元禄度に、小町九郎兵衛、池谷彦右衛門が奉納した鉄燈籠は現存する。石坂は延享四年(1747)丁卯三月に整備した。三十二段ある。その東側十間程の所に、廻り各一丈四尺余の大杉が二本あったが、天保五年(1834)別当達道の代に伐った。
熊野神祠
清水山成就院境内にあり。毎年九月十九日を祭典とする。
◎注
棟札1
健保2年(1214)大旦那 石井美作は
石井美作の菩提寺である三光院では「開基の石井美作が延文四年(1359)に没」とします。
棟札2
慶長16年(1611)6月吉日 本願旦那 石井勘解由は
杉本家(石井家が改称)に伝わる「代々乃かがみ」では
28代で寛永13年(1636)没
鎮守氷川大明神本社上家再興
とあります。この時の棟札であることが確認できます。
2創建を地元では健保2年(1214)とする
『新編武蔵風土記稿』『狭山之栞』とも創建は不詳とします。その中で、『狭山之栞』は建保2年(1214)、慶長16年(1611)、元禄14年(1701)の棟札があったことを伝えます。ここから、地元では、創建を建保2年(1214)としています。
一例ですが、清水神社鳥居の右側に「重建華表之記」があります。明治30年(1897)地元の方々47名によって造立されたものです。大要、次のように刻まれています。
北多摩郡清水村村社氷川神社は山下門前にあり素盞嗚尊・大己貴尊・稲田姫命三神を祭る
健保二年建立という、天正十九年圭田五斛(こく)を賜り、延享四年(1747)石階を築き木造の華表を造った。それが朽ちたので朽ちないように石造に建て替えた。
『狭山之栞』に記された建保二年の棟札に記された大旦那の石井美作は実在の人物です。しかし、三光院では「石井美作、延文四年(1359)に没」とします。石井美作が数代続いたことも考えられますが検討を要する課題です。
3氷川・熊野神社の旧地
両社とも村山貯水池地域内にあったため、現在ではその形跡は見られません。
(1)氷川神社
(2)熊野神社
清水村の旧家・五十嵐氏の残された「五十嵐氏考」に志木街道から清水観音堂を経て村山貯水池に至る間の貴重な絵図が残されています。形状は大きく変わっていますが、ほぼ辿ることが出来ます。
中央の坂が、上図の「お熊野坂」周辺、右台地の上に熊野神社がありました。
ただし形状は変わっています。 2010.12.27.撮影
清水地域は明治維新後の地域制度改正の際に、他の地域が韮山県に所属しましたが、清水村のみ品川県に属したこともあり、統一的な資料が得られず困惑しています。正確な記述が出来ないことをお許し下さい。
4神社の建て替え、社務所新設
社務所は昭和38年(1963)に新築されました。地域の人々の汗の結晶がこめられています。当時、不景気のどん底に追いやられた村は、昭和16年(1941)農事実行組合を結成し、事業を幅広く共同処理しました。経営の合理化に努め、借金を返済、実績を上げました。昭和20年(1945)米軍の占領政策により解散しました。その間、積み上げた貴重な財産を処理して、総額150万円を生みだし、これを寄進して新築しています。
社務所右脇に「清水農事実行組合記念碑」が建てられて、その旨が刻まれています。
(2018.05.17.記)