いづみのまわり地蔵さん

 「カンカンカンカン」甲高(かんだか)く冴えた鉦(かね)の音が秋空にひびき渡って、今年も「いづみの地蔵さん」が大和村にもまわってこられました。

 狛江市和泉(こまえしいづみ)にある泉竜寺の延命子安地蔵(えんめいこやすじぞう)さんです。この地蔵さんは、子育て子授(さず)けに大層ご利益があるというので、江戸の昔から近郷近在の人々の信仰を集めていました。十二代将軍の時代には徳川様の病弱なお子のために、地蔵さんがお駕籠に乗って登城したという言い伝えがあるくらいですから、それは大変なものでした。

 泉竜寺山門

 地蔵さんは毎月二十五日に泉竜寺を出立し、民家に一泊しては次々と町や村をまわり、翌月の二十二日に巡行を終えて、翌二十三日の午後に寺へ帰ってきます。「二晩泊めると地蔵さんが泣く」といってどこの家でも一夜限りでした。寺に帰られた時も一泊すると翌晩はお仮屋で泊り、次の日には「お留守居番」の地蔵さんに後を託して、また長い巡行の旅に発たれるのです。こうして子育て地蔵さんはほとんど一年中まわって歩かれたので、別名「いづみのまわり地蔵さん」とも呼ばれて親しまれていました。

 砂川、小川を中心とするこの辺りの地域は、毎年十月二十五日から十一月二十二日までが巡行期間ときめられていて、大和村に到着するのは十一月のなかば過ぎ、ちょうど麦の播(ま)きじまいの頃でした。大正から昭和にかけてもっとも盛んで、昭和十七年頃まで続きました。」

 弁財天池(和泉の語源となった)

『東大和のよもやまばなし』はこう語り始めます。巡回は都内は3月、狭山丘陵周辺では8月から9月に入間市から所沢市、青梅市、10月から11月に立川市から狭山丘陵南麓を廻ったとされます。よもやまばなしを続けます。

「お厨子に入った地蔵さんは、丸くおおいをした手車に乗せられて、鉦をたたく人を先頭に世話人など数人につきそわれ、隣の部落から送られてきました。篠棒(しのぼう)の先につけた「延命子安地蔵尊」と書かれた色とりどりの旗が風になびいています。宿に到着すると、旗は入口の立木にゆわえつけて今晩の宿の目じるしにします。

「地蔵さんの宿をすると子が授かる」というので、宿を希望する家は少くありませんでした。しかし限られた期間に多くの部落をまわらなければなりませんので、各部落に一軒か二軒とあらかじめ決められていました。
宿をする家では朝からおはぎや煮〆(にしめ)を作って、供養のふるまいの準備に大わらわです。地蔵さんを座敷に迎え入れると、お灯明をあげてお厨子の扉を開きます。左手に小児を抱き右手に錫杖(しゃくじょう)を持った、台座ともで四十センチメートルほどの小さな木の坐像です。

 その日ばかりは女衆達も、子供の健康祈願という大義名分があるので、晴れて機織(はたおり)りの仕事を休み、着飾って三々五々お詣りに出掛けます。若い衆たちも地蔵さんの来られる日は、はなやいだ雰囲気に心が浮き立つ思いだったといいます。

 日頃からきれいな端布(はぎれ)を見つけては、夜なべに縫いためておいた柿や猿の縫いぐるみを地蔵さんに供えます。新聞紙を重ねた台紙に、いくつも猿や柿を糸で結びつけ「お針が良くできますように」と念じながら、お厨子(ずし)の扉の内側に飾ります。猿は五匹まとめてつけます。「マメでござる」の意味がこめられているのだそうです。そのほか、地蔵さんのよだれ掛、頭巾(づきん)、きんちゃく、鉦のふとんなどを供える人もいました。

 子供達は上達を願って習字や絵を供えます。子に恵まれない人、弱い子をもつ人、もうすぐ母親になる人などはお賽銭(さいせん)をあげ、供えられた品々の中から何か一つお借りして身につけ、それぞれに願をかけます。病弱な子には柿や猿を借りてチャンチャンコの衿(えり)につけて背まもりにします。翌年、結願(けちがん)のあかつきには借りた品物を倍にしてお返しするのがならわしでした。

 子供達は丈夫になるようにと、地蔵さんに供えられたお菓子を分けてもらって大はしゃぎです。隣の部屋からはお詣りに来た人達が、ご馳走になりながら四方山話(よもやまばなし)に興じる楽しそうな声が聞えています。年に一度、地蔵さんの来られた日は、子供達も若い人も、お年寄りたちも、祭気分で夜の十時ごろまで一日中楽しく過しました。

 一泊した地蔵さんは、翌朝世話人に送られ隣村からも迎えが来て、賑々(にぎにぎ)しく次の宿へと引継がれて行きました。」(p1~3)

 現在の猿や柿のつるし雛

 狛江市生え抜きの親友が、お地蔵さん建立の願主は、安永7年(1778)年、神田の上州屋・松本弥次兵衛夫妻と調べてくれました。当初は江戸市中に信仰が厚かったことがわかります。
 多摩地方では、中島恵子氏が「入間市の宮寺では、天明の飢饉のあと、疫病が流行って子どもが大勢亡くなったので、このお地蔵さんをお迎えすることにした、と云い伝えている。」(『多摩のあゆみ第三号』p40)としています。

次ページに続く。(2017.06.21.記 文責・安島喜一)

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