いづみのまわり地蔵さん 続き
東大和市に来る前の順路
いづみのまわり地蔵さんは狭山丘陵南麓では瑞穂町域~武蔵村山市域~東大和市域~東村山市域の順にに巡行したようです。
中島恵子氏は、「巡行先は、いつごろからか月ごとにきまっていた。たとえば八月から九月にかけては、いまの埼玉県入間市の宮寺を申心に所沢や青梅をふくむ地域、九月から十月は、北区の赤羽や十條あたり、そして十月から十一月は、立川方面などであった。
昭和十七、八年頃、立川方面の最後の巡行地は、現在の小金井・国分寺・小平・立川・東村山・東大和・武蔵村山・東久留米・所沢の九市、および瑞穂町にわたっている。」としています。(多摩のあゆみ3号p40)
武蔵村山市域では
地蔵はいったん瑞穂町殿ヶ谷をまわったのち三ツ木・宿に来た。一泊した地蔵は、峰などをまわり中藤に送られた。横田に寄ることもあったという。中藤では、馬場、萩ノ尾、原山、入り、谷津、神明ケ谷戸、鍛冶ケ谷戸で一泊して、東大和の芋窪に送られた。(武蔵村山市史民俗編p618)とします。
指田日記の安政3年(1856)11月19日の条に「泉の子持ち地蔵、杢左衛門宅に止宿」とありますから、時期も決められていたことが分かります。この日からそう遠くない日に芋窪に来られたのでしょう。
まわり地蔵さんの慕われた理由の一つ
狛江市史は「子安地蔵尊略縁起」と「子安地蔵尊利益略記」を紹介します。その「子安地蔵尊略縁起」のうちの一条です。
「大病人祈祷ノ為、又は難産ノ人之有るに付キ、途中乍ラも請待相願ヒ申ス人之有り候ハバ、全ク貴賤ノ御選なく、暫時も其ノ家に於テ御戸帳御開き成さレ、御願ノ御符御授ケ下サル可ク侯、」(狛江市史p589)
予定が決まっている巡行の途中でも、「大病人や難産の人」から願われた場合は、「全ク貴賎ノ御選なく」暫くでもその家に寄って開帳して願のお札を授け下さい、と記しています。これは、村人達に安心感をもたらせ信仰を厚くしたと思われます。狛江市史は「泉龍寺のまわり地蔵」の一節を設けて詳細に紹介しています(p580~598)。