鹿島さまの欅
青梅街道から豊鹿島神社の表参道を進み、鳥居を潜ります。
現在の欅の手前に太い枯れた空洞の幹があります。
2003年(平成15)の状況
この欅について尾﨑荘助氏は『大和村史稿』で、「優に十人を容るるの洞穴をなし、周囲二丈余を有す」(大和町史研究4p36)と記されています。約6メートル余あったことになります。書かれた年月が明記されていませんが、人口や他の記述の内容から大正十年(1921)代と思われます。
この空洞の欅に次のような話が伝わります。
「豊鹿島神社の欅は樹令千余年、神社の歴史と同じ位といわれています。
現在は、中ががらんどうになってしまい、昔の面影は全くありません。明治時代までは、枝が大きく茂り、人家が少なかったので、夜はとてもこわくて、この近くは歩けませんでした。
明治の中頃、この大木のうろ(空洞)に火のついたお札が投げこまれて、火事になってしまいました。近所の人達が、井戸より水をリレー式で運び、枝の上に乗り、車井戸を使って水をかけ火を消しました。
大正時代に、大きな枝が折れましたが、まだまだ樫は大きく、子供達が十人位で手をつないでまわったり、地上から一メートル位上のこぶにのり、鬼どっこ(鬼ごっこ)などして遊ぶことができました。
あけ方になると、「ブッ」「ブッ」と不気味な音が聞こえてきました。きっと欅も水がほしくて、地下水を飲んでいたのかもしれません。この不気味な音は大正の末ごろまで毎晩聞こえてきたそうです。
暗くなると、オッポッポ(ふくろう)が、どこからかとんで来て、枝の上で目を光らせているので、若い娘達はこわくて、外に出る気にはなれませんでした。
大きな枝が折れて倒れた時、きこりさんが二人がかりで、ギーコ、ギーコと鋸で切ったら、きれいな玉目や竹の子目が現われ、その木目を利用して、たばこ盆や仏壇の下の戸を作った家もありました。
また、戦争で焼けてしまいましたが、新宿の鳴子天神の拝殿にも使用されたと言われています。
その後、昭和の初めの台風で、また大きな枝が折れて倒れ、近くの建具屋さんの作業所がこわされてしまいました。戦後は、人も車も急に増加したので、欅はすっかりつかれてしまい、今の様に、中ががらがらになってしまいました。」(『東大和のよもやまばなし』p147~148)
鹿島様は慶雲4年(707)の創建伝承を持つ、東大和市内で最も古い神社です。特に、現在の本殿は文正元年(1466)の創建棟札を持ち、郷土の誇りとなる東京都内最古の室町時代神社本殿です。そのため東京都の指定文化財になっています。
この大欅は本殿の建設された経過をしっかり目にしていたはずです。それが、欅の幹は年々空洞化が進んでいます。 「永久保存 鹿島の大欅」と氏子の皆さんが頑張って居られます。成功するよう心から願います。(2017.06.27.記)68