馬方勝っあん
「馬方・勝っあん」です。
村山貯水池が建設される前の話です。狭山丘陵の南麓と湖底に沈んだ地域とは生活圏を共にしていました。また、北麓の地域とも深い交流がありました。特に所沢で六の日毎に開かれる「市」は村人達にとって大きな関心事でした。そればかりでなく、村の商店にとっては、仕入れ先でもありました。大正の初め頃(1915年代)ここを往復した実直な馬方が「勝っあん」です。
この村に中藤村(武蔵村山市)から、お酒の好きな五十歳前後の体格のよい馬方さんが、配達の仕事で来ていました。
当時村の人々は、「馬方勝っあん」と呼んでいました。
勝っあんはよく働く人で所沢まで往復八里(十六キロメートル)もあるのに、夕方までに注文の品を届けるので、商店の主人達に重宝がられておりました。
勝っあんは、「内堀の店で好きな酒をゆっくり飲む。これが何よりの楽しみで働くのだ」とよく言っていたそうです。
勝っあんが、中で陽気に飲んでいても、馬はおとなしく外で待っていました。お酒の好きな勝っあんは、ついつい飲みすぎてしまい、酔っぱらってしまうこともありました。そんな時、店の主人は馬に、「お前、勝っあんを家まで送っておくれ」とたのむと、馬はわかった様子で、勝っあんが落ちないようにゆっくり歩き出しました。
勝っあんの通った道は、現在の奈良橋八幡神社東側の道を登ると、村山貯水池周囲道路につき当ります。その真向いの道です。進行防止の鉄線がはられていますが、その道をしばらく行くと、急坂になりその辺から水辺になります。昔はこの坂を下った所に、庚申様が祀ってあって、内堀村の人々は「庚申坂」といっておりました。」(『東大和のよもやまばなし』p118~120)
勝っあんがあこがれた東京からは、たくさんの人々が移住してきて、住民になりました。そして、交流のルートも変わり、馬も勝っあんの仕事もなくなりました。
勝っあんが通った村山貯水池周辺の貴重な緑がいつまでも残り、放射能に曝されないように馬の背に手を置いて祈ります。