円乗院7 本堂左側
円乗院7 本堂左側
円乘院本堂左側地域には千体地蔵尊他多くの石造物がまつられています。
特に、江戸時代初期の地蔵尊、神仏習合時代の灯籠もあり、円乘院の歴史を深く語りかけます。
宗祖弘法大師1150年諱(き)供養に弘法大師尊像、東大寺型灯籠、大天水桶一対を檀徒の方々が供養した旨が彫られています。
左から光昧地蔵、牟尼地蔵、諸竜地蔵、救勝地蔵、護讃地蔵、不休息地蔵尊です。
手の仕草、持ち物と地蔵尊の名が明確にわかります。
この一角は江戸時代初期から幕末に至る間の地蔵尊や石灯籠が集められています。
特に、嘉永元年(1848)、享保元年(1718)石灯籠は神仏習合の時代、円乗院が愛宕大権現を別当としてまつり、その前に石灯籠を捧げたことがわかります。
嘉永元年は幕府が異国船打払令を復活し、江戸湾防備に躍起となり、翌年、江川太郎左衛門が農兵設置の建白書を幕府に提出するなど緊張が高まった年でした。
元禄7年(1694)地蔵尊は江戸時代初期の造立で、東大和市域で二番目に古い地蔵尊です。最古は元禄(1693)で、村山貯水池に沈んだ地域にあり、現在は清水三光院中堂墓地にまつられています。
これらの石造物については「円乗院7-1 本堂左側石造物」として別に書きます。
円乗院に、殉国産業戦士供養塔があります。なぜ、この地にこの碑があるのか、第二次世界大戦と工場誘致と住宅地化と碑の行方とが組み合わさった背景があります。それらについては「円乗院の殉国産業戦士供養塔」として別に書きます。ここでは、碑文を紹介します。
碑文には次のように刻まれています。
第二次世界大戦の末期 祖国のため航空機増産に励んでいた日立航空機の工場に昭和二十年二月十七日と四月二十四日の二回艦載機と爆撃機による大空襲があり工場は壊滅し二百人近い人達が亡くなりました。
戦後この跡地に九州より企業進出した日本繊維化工株式会社の人達はこの事を知り、供養塔を建立してその冥福を祈りました。
時代の推移と共に同社は彦根市に転出してこの地は住宅団地に変わったので、私達は関係者と相談し円乗院の聖域にこの塔を改刻移設し永くこの人達の菩提を弔います。
愛宕山地蔵講世話人一同
昭和五十八年五月 当山 現董 正存代
円乗院の西側斜面一帯(本堂の左側から背後)は千体地蔵尊(水子供養)をまつる地となっています。
昭和59年(1984)、弘法大師ご入定1150年御遠忌に際して、狭山、高木地域の方々を中心に「愛宕山地蔵講」が形成されて、尊像が造顕されました。
千体地蔵尊供養塔には次のように刻まれています。
仏像の造立と仏塔の建立は仏果円満の布施の心によって 人々は善根や功徳を積むことができると宗祖弘法大師 空海 は造顕の尊さをわたくし達に教えております。
偶々 昭和五十九年は祖師大師ご入定一千百五十年にあたり 御遠忌の法縁を記念し 我等思いを一つにし この世に生を享け成人に至らず逝かれた子たち 不運にもこの世の光はもとより父母の顔すら見ることもなく 露と消えた水子たちの霊をお祀りし お慰み申しあげるために 千体地蔵尊像の造顕を発起計画いたしました。
わたし達 発起人 世話人はあい寄りあい集い 名称を愛宕山地蔵講と定め 昭和五十八年の初頭に結成し三月末には総工費二千余万円の浄財を基金として聖域の造成工事に着手し ほぼ半歳にして一部を残し恙なく完了をみたのであります。同年八月の地蔵盆には 本講の規約に従って 第一回の地蔵まつりを千体地蔵尊の開眼供養として 厳粛な中に賑々しく年祭りを執り行いました。
御本尊錐鑽(きりもみ)不動尊のご宝前より ご分灯を頂戴して 奉安者が手に手にお明りをお供えする千灯供養の光景はまさに荘厳浄土具現の感を等しく見るものに与えたのであります。
この一大浄業の完成を機に 特別のご信助を頂いた方々のご厚志に酬ゆるため ここに千体地蔵尊の供養塔を建立し 永くその名を刻み謹んで報恩の誠を祈念いたすものであります。
円乗院7-1 本堂左側の石造物に続く
円乗院の殉国産業戦士供養塔
(2018.04.14.記)
広大な寺域には様々な文化財があります。文字をクリックすると記事になります。