ほうそうの話
ほうそうの話
今では、ほとんど話題になりませんが、「ほうそう」という命取りになった伝染病の話です。『東大和のよもやまばなし』はこう語り始めます。
「昔、はやりやまいの一つに「ほうそう」(天然痘)がありました。ほうそうは死亡率の高い伝染病で、種痘が一般に行なわれ始めた明治の初年までは一度流行すると、子供を持つ親はたいそう心配でした。
高い熱が三日位続き、ついで発疹が出てきます。それがやがてくずれてデコボコのあばたが顔に残るという大変困った病気です。
治療の方法もなく、医者にも手のほどこしようがないのですから、患者が出ると、神社へお百度まいりをしたり、瘡守稲荷へ祈願をしたり、又ほうそう日待ちを行なったりして快復を願うより仕方がありませんでした。」
怖いのは、この病気、一度かかると命を失うことが多かったからです。その様子を、お隣の武蔵村山市に伝わる『指田日記』から辿ってみます。天保11年(1840)の記事です。
一月
十七日東隣、庖瘡日待。廿二日喜代蔵一女、庖瘡にて死。忠蔵二男、庖瘡にて死。
二月
十三日半蔵女、庖瘡にて死。廿五日向勝右衛門女、庖瘡の湯ながし。廿七日半次郎児、向勝右衛門女庖瘡にて死す。
三月
三日金十郎嫡女、庖瘡湯ながし。宅部・円達院で火生三昧(かしょうざんまい)。五日清左衛門児、庖瘡湯流し、権右衛門児、庖瘡にて死。六日市郎左衛門末女、疱瘡湯流し。七日清左衛門児、疱瘡にて死。十三日夜向勝右衛門児、庖瘡後死。十六日市左衛門孫、庖瘡後死。十七日半次郎小児、庖瘡湯かけ。廿三日金十郎末女、庖瘡湯ながし、弥次郎小児、疱瘡後不快により千度参り。廿七日内の二女琴、疱瘡湯流し。廿八日箱根ケ崎金右衛門妻、庖瘡見舞に来る。
と相次ぐ死亡の記事が続きます。そして、疱瘡湯流し、湯かけの言葉が出ます。疱瘡の病原をお湯で清めて洗い流そうという祈祷です。日記を書いた指田さんは修験でした。
また、よもやま話の中では
・神社へお百度まいりをしたり、
・瘡守稲荷(かさもりいなり)へ祈願をしたり、
・ほうそう日待ちを行なったり
して回復を願っています。
その一つに、「宅部・円達院で火生三昧」の祈祷があります。
宅部は東大和市内の村山貯水池の湖底に沈んだ地域で、下貯水池の堰堤から見える手前の取水塔の付近です。
円達院は、修験で氷川神社の別当をつとめて管理に当たっていました。ここで「火生三昧(かしょうざんまい)」の祈祷が行われました。
火生三昧(かしょうざんまい)は、この場合、不動明王を一心になって拝み、お不動さまから発する炎で悪魔を焼滅して頂く祈願とされます。武蔵村山市域の村人も、一峰超えて宅部の地に祈祷を頼みに来たことがわかります。
東大和市の奈良橋では、八幡神社の別当である修験の覚宝院が「疱瘡神」をまつって、疱瘡落とし、回復の祈願をしました。貴重な遺産として、現在も本殿の東側にまつられています。
中間の説明が長くなりましたが、よもやま話は
「ほうそうの発疹は大変かゆくて顔をかきむしり肉までむしり取ってしまう程だったそうです。かゆみをやわらげるためか「あわがら」や「あわぬか」を床に敷いて、そこへ寝かせておいたという話です。
幸いにもほうそうが治ると、「ささ湯」を浴びせて身を清めました。
「あばた」は手や足には出来ず、顔にだけ出来るものですから、治ってもその跡が残って、気の毒にも年頃になった娘さん等は、お嫁入りの話にもさしつかえるようでした。
大正に入るとどの子供も種痘をするようになり、ほうそうの流行はほとんど見られなくなりました。
生後半年位の赤ちゃんに小学校で「ほうそううえ」が行なわれ、この日ばかりは子供の母親は晴れて外出できるので楽しい日でもありました。普段は、機織りや、農作業に追われる若い母親が、家の人たちに気がねをすることもなく出かけることができたからです。こざっぱりした着物に着替えて出かけていったそうです。赤ちゃんには気の毒ですが、種痘がお母さんのほね休めに一役買ったというところでしょうか。」(東大和のよもやまばなしp76~77)
と語りをおさめます。
(2019.06.09.記 文責・安島喜一)(よもやま話34)