初めての村会(東大和市)
初めての村会(明治12年・1879)
1東大和市域の村々に村会が置かれることになった
明治12年(1879)6月13日、神奈川県は「町村会規則」を布達しました。
村に「村会」を置くことを定めたものです。
明治14年(1881)、政府が国会開設を定める2年前です。
この背景には、明治7年(1874)、当時、東大和市域の村々が属していた神奈川県に、県令として中島信行(元土佐藩士、土佐勤王党に加盟、脱藩、長州藩の遊撃隊に加わり、その後坂本龍馬海援隊門下生)が就任し、明治8年(1875)6月に開かれた第一回地方官会議で、県民の自治意識の昂揚を説き、「地方民会の公選」を主張したことが大きく影響していると思われます。
・議員の数は町村内の戸数によって定められました。
100戸未満は10人以下
100戸から200戸未満は15人
それ以上は200戸ふえるごとに5人ずつの増員とされました。
・選挙権・被選挙権はその町村内に本籍と住居を定める満20歳以上の男子で、村内に土地を持つ者とされました。
・町村会は毎年2回、5月と11月に開かれ、会期は戸長からの延期の申し出がないかぎりは10日以内とされました。
議決する事項は
①町村の経費で支弁する事業
②町村の経費の予算・徴収方法
③町村共有財産の処分・維持方法
④戸数割税の徴収税率
などでした。地方税の賦課は県から個人に賦課されるのではなく村に割り当てられていました。
近代的な装いのもとに、江戸時代からのしきたりが残されていました。
2最初の村会
東大和市域の村々では、明治12年から13年にかけて、村会議員の選挙が行われ、議員が選ばれて、各村ごとに村会が成立しました。東大和市域には下図の通りの村々がありました。
(1)蔵敷村の村会
蔵敷村では明治12年7月5日、村会議員の選挙が行われ、7人の議員が確定しました。村の商人、比較的富裕な農民でした。
翌13年2月11日、最初の村会が開かれました。議案は
①明治十二年度地方税地租割戸数割賦課法
②明治十二年度協議費支出予算
③協議費則の三案でした。
その日の内に可決されています。
(2)高木村の村会
高木村では明治12年に、村会議員7名が選挙によって選ばれました。戸長宅に高木村の「役場」が置かれました。
右の表は明治12年高木村の歳出予算です。215円中、小学校費が32%、県に納める地租割税が25.5%、戸数割り15%です。
県に納める税が40%を超えていることがわかります。
予算は、地租を村に割り当てられ、村で徴収し、村が納めているところに特色があります。
現在の福祉や環境などの費目は一切ありません。
小学校費、三ヶ村のうち三分の一割り当て分は、当時、高木村、狭山村、清水村の三か村で「高狭小学校」を設立していたことによります。明治の小学校
予算の実体は、県の事務の執行を容易にする手段であったともとられます。
しかし、村の予算を村民の代表が定めて執行するという、地方自治の芽生えが見られることは確実です。(表は大和町史p359から引用しました)
◎注意すべきは、高木村には「村会」の他に「地主総代会」があって、睨みをきかせていたことです。
◎狭山村が7月24日に村会議員の選挙が行われたことを「代々のかがみ」が記しますが、具体的な資料はありません。
◎地方の自治が制度的にゆっくりですがつくられ始め、様々な情報がもたらされる中で、村の人びとに自由民権の動きが芽生えてきます。それらについては、別に記します。
(2019.11.01.記 文責・安島喜一)