千葉卓三郎が奈良橋村に滞在(東大和市)
千葉卓三郎が奈良橋村に滞在
五日市憲法草案の作成にあたった千葉卓三郎が奈良橋村(現・東大和市)の鎌田家に滞在していました。明治14年(1881)5月~9月にかけてのことです。当時、千葉卓三郎は深沢村(現・あきる野市五日市)の観能学校の教師であり、「五日市憲法」の草案つくりの最終段階にありました。
奈良橋村にいたことは、明治14年(1881)5月~9月にかけて、奈良橋村から五日市の深沢権八宛に出した千葉の三通の葉書が残されていることからはっきりします。
その葉書は
①明治14年5月15日、自分が不在であっても観応学校の授業を進めてほしい。
②同年7月13日、集会条例などにより公務員の自由な言論が制約されているとの現状批判
③同年9月15日(推定)、狭山円乗院で行われる自由懇親会への深沢の臨席依頼。
の3通です。
なぜ奈良橋に?
丁度、五日市憲法草案作成が山場に来ている段階なのに、まとめの中心、指導者である千葉卓三郎がなぜ奈良橋村の鎌田家に滞在したのかの背景です。集会条例との関係などいくつかのことが想定されていますが、ここでは、石井道郎氏の説を引用させて頂きます。
「彼の五日市の住居は五日市町三二番地、隣家三三番地は鎌田屋と呼ばれる家で、この家の本家は奈良橋村の豪農である。
「先生、うちの本家には年頃の男の子が三人もいる。その家庭教師でもやったらー」
と鎌田屋の主人が斡旋したとしても自然な成行ではないか。(戸倉物語p61)
・・・・
実は今一人、死後まで卓三郎を慕った若者がいた。それは、千葉が明治十四年五月、五日市を飛び出してから、家庭教師をした北多摩郡奈良橋村の豪農鎌田家の二男坊喜十郎で、その当時十六才。
卓三郎はこの若者の知的な渇えを癒してやったものとみえる。接触した正味の期間は何か月でもあるまいのに喜十郎は生涯卓三郎を我が師と仰ぎ法律の修学を志した。不幸にして彼もまた結核で天折しているが、鎌田家では、その遺言にもとづき墓に千葉の名を刻んだ。」(戸倉物語p74)
として、鎌田家三人の兄弟との関係を指摘されています。鎌田家には、鎌田喜三郎としげの間に、喜三(訥郎)、喜十郎、弥十郎の三兄弟がいました。
・喜 三 文久2年(1862)4月20日生(自由民権活動家、神奈川県会議員、自由党員、・・・)
・喜十郎 慶応元年(1865)11月9日生(千葉に心酔、千葉の最期を看取り、自らも結核となる。
千葉の名を刻んだ墓碑を残す)
・弥十郎 明治元年(1868)8月17日生(明治18年、18才で五日市町の岸家へ養子に入る。
後に五日市町長に選ばれる)
喜三は9才で、村塾に学び向学に燃えていました。15才歳の時、どうしても上京して学びたかったのですが、親の許しが得られず、無断で上京して明治法律学校で学びます。明治14年(1881)10月、20才、自由党員になっています。この年の5月、千葉と一緒になりました。
狭山自由懇親会で本分発揮
明治14年(1881)9月25日、円乗院で「狭山自由懇親会」が開かれました。この懇親会をもり立てたのが千葉卓三郎と鎌田喜三でした。千葉は五日市の深沢権八に臨席を依頼しています。鎌田喜三は高木村の宮鍋庄兵衛と共に発起人となり、会の趣旨を述べています。
重要な事は、この会で、千葉が演説をしたと考えられることです。
奈良橋自由懇親会のページで紹介しましたが、
「自由ノ理明カナラザレバ民権起ラズ」
「民権起ラザレバ自治ノ気象振ハザルナリ」
「自治ノ気象振ハザレバ知識焉ンゾ進ムヲ得ンヤ」
「如何ナル僻陬(へきすう 僻地)ノ地ト錐ドモ、速ニ国会ヲ開キ、立法ノ大権ヲ人民ノ手ニ掌握セシメント」
とする演説草稿が残されています。
この席には、衆楽会、芋窪学術懇談会などを主導した内野杢左衛門も出席しており、千葉との接触も考えられます。
それから間もなく、千葉は10月はじめに、五日市の勧能学校に戻っているようです。同年11月21日、奈良橋学校(雲性寺)で行われた「自由懇親会」には参加していません。この懇談会は千葉の薫陶を得、意気投合した鎌田喜三が大いに活躍したようです。
以上の経過を知り、石井道郎氏の縁戚の方に五日市の千葉の下宿先を案内していただいた時には、心が躍りました。
五日市憲法草案は深沢家の蔵に
多摩の自由民権運動が盛り上がる最中、明治14年(1881)10月12日、政府が国会開設を約束する詔勅を発しました。全く残念ですが、五日市の若者達と千葉卓三郎は、情熱を籠めて創り上げた憲法草案を空しく深沢家の蔵に収めます。
鎌田喜三はやがて神奈川県会議員となり、活動を広めます。
千葉卓三郎病む
千葉卓三郎は明治15年(1882)、持病であった結核・胃病の悪化により療養生活に入りました。
そして、明治16年(1883)11月12日、本郷(現東京都文京区)の病院で亡くなりました。31才でした。
その最後を見届けたのが鎌田家二男の喜十郎でした。『東大和市史』から主要点を引用します。
・一人の仙台藩士として、幕末維新期の変革期を体験し、敗北して賊軍の汚名を着せられながら新しい生き方を求めて放浪しつつ様々な人生経験を積んできた異色の人材、千葉卓三郎に奈良橋の若い青年・喜十郎は、強く魅入られるのである。
・喜十郎もまた兄同様に村を飛び出して上京し、湯島の法律学舎に寄宿する。ちょうどその時期、千葉が結核の治療のために近くの東京大学付属病院に入院してきたのである。彼は千葉の病室を頻繁に見舞い、親身な看病を続けた。口述筆記、手紙の代筆もしたことがある。千葉の最晩年にもっとも親近した、なおかつ最後の「門人」であった。
・彼もまた、まもなく同じ病に倒れる。明治二十二年(一八八九)、千葉の死後から六年後、二十四歳の若さで夭逝(ようせい)してしまう。
・その時、喜十郎は遺言を残していた。千葉を心から敬服していた証拠に、自分の墓には「千葉先生」という文字を刻んでくれと。いま、鎌田家の墓には遺言通りの文字が刻印されている。
・「千葉先生仙台之人」という文字の隣が、喜十郎の戒名の「修岳院仁智明達居士」となっており、千葉と喜十郎は並んでいる。(p274~275)
東大和市内の自由民権関係史跡を訪ねる時、千葉卓三郎に関わる場所は何かに引き留められる感じを強く持ちます。
(2019.11.17.記 2017.05.21の記事を全面的に書き替えました。)