日立航空機工業(株)工場跡地の平和利用、多様な業種の立地
日立航空機工業(株)工場跡地の平和利用、多様な業種の立地
第二次世界大戦中、主に軍用機のエンジンを作っていた日立航空機工業(株)の工場群は、軍需産業の標的としてアメリカ軍の爆撃を受け、焼け野原となりました。戦災から解き放された村は工場跡地の平和利用、住民の雇用を期し、新たな工場の立地を図りました。
工員のアパートや社宅用地として、居住を中心とした地域は、商店舗、住宅地の一体化された地域、「南街」として定着、発展しました。
大和通り共栄会、富士見通り商栄会、南街通り商工振興会と相次いで商店街が形成されました。
戦前都市計画と昭和20年代の都市計画
東大和市域の都市計画は、昭和18年(1943)8月、当時の大和村が立川都市計画区域に含まれ、下図の通り工業地域と一部商業地域の用途指定が行われました。
昭和20年(1945)の工場群壊滅、終戦を機に、大和村は村の自立性を高め、税収の安定を図る上から、この地に中小工業の立地を促す政策をとりました。
昭和25年(1950)、西武上水線が小川~玉川上水間を開通し、青梅橋駅、玉川上水駅が 出来ました。住民の活動の足が確保されました。
工業地域の拡大には都市計画の用途変更が必要でした。村から町になった大和町(昭和29年・1954)は、昭和36年(1961)、下図のように都市計画を定めました。工業地域を大きく拡大し、狭山丘陵の保全、住民の居住する住宅地の区域を明確にして、街路に沿って商業地域を定めています。
ただし、日立航空機工業(株)の工場群跡地は、昭和30年(1955)に米軍大和基地(極東空軍大和基地)として使用され、工業地域から外されました。
工場の誘致と立地状況
都心から35㎞圏に様々な開発が進む中で、町は工場の誘致を重ねた結果、下表の通り、昭和27年から昭和45年にかけて基地跡地周辺へ集中して立地しました。
・工場が増加したのは、昭和33年(1958)から37年(1962)が第一次ピークで、
・昭和40年(1965)以降は食品、IT、運輸・倉庫業などが進出してきます。
・サービス業と共に多様な業種が立地しています。
・立地した地域は、日立航空機(株)の工場跡地の周辺地域です。
工場跡地には昭和30年(1955)、町の反対を押し切って米軍大和基地が建設されました。
そのため、まとまった大規模な工場を含め、多くの工場が芋窪街道、桜街道を中心に立地しました。
工場の移転
様々な工場・事業所が立地しましたが、状況は2000年頃から徐々に変わります。特に2001年から始まった日産自動車村山工場の閉鎖に伴い、関連事業所が移転し、跡地はマンションへと変化します。
次に記します。
(2020.10.11.記 文責・安島喜一)