文久のコロリ
文久のコロリ
オリンピックで盛り上がろうとするとき、東京はコロナ第5波に見舞われそうです。
江戸時代、文久2年(1862)、狭山丘陵周辺の村人は「コロリ」問題で悩まされました。
鼓露痢なんて難しい字も書きますが、この病に罹るとコロリと亡くなってしまうので「コロリ」と呼ばれました。
どのような状況だったのか『指田日記』と杉本文書で辿ってみます。
あわせて、当時の村人が病よけに信じた天王様(てんのうさま)について紹介します。
1『指田日記』のコロリ
・文久元年9月22日、夜明け方、山王前の順次郎頓死、卒中風、又はコロリとも云う。(『指田日記』下p98)
・文久2年6月30日、先日より江戸、麻疹(はしか)人多く死す。
・7月29日、この月、田舎一統麻疹の死者夥(おびただ)し。
・8月7日、この節、府内コロリと名付け、病みつくと即日死す。五カ年以前流行の時より急速に死す。
・8月18日、水戸屋万次郎父又吉、コロリで死す。
・21日、水戸屋家内五日の内、三人病死。
・22日、砂川(現立川市)の本屋コロリ。
・閏8月4日、小川村(現小平市)の病死、八十人余り。
と文久2年(1862)夏に入ると連日のようにこの病で亡くなっていることが記されます。
注
8月7日の「五カ年以前」は安政5年(1858)にあたります。この年の8月17日には、
此の節、府内疫邪、 殊に彩しく日々死する者千人余、煩う者三日を過ぎずして死す、世俗是れを「三日コロリ」と名づく、
是れに依りて、村内百万遍、又神明拝殿で日待。(『指田日記』下p43)
と記されます。
文久2年は二度目の山が来たのかもしれません。
おそらく、東大和市でも同じ傾向がみられたと思われますが、資料が残されていません。
いろいろ探してみましたが、村山下貯水池の湖底に沈んだ地域での出来事がわかりました。
杉本家の文書に次のように伝えられます。原文がわかりやすいので、安政年間杉本家文書から紹介します。
2杉本家文書、コロリ(鼓露痢)と女講の百万遍念仏
文久2年(1862)8月、病魔を前に、女講中による一軒一軒巡る百万遍念仏と修験による護摩修行が行われました。
・8月27日、コロリ(鼓露痢)病流行につき村中安全のため軒別の女講の百万遍念仏を行った。
平重郎宅(杉本)から始め、地蔵堂で終わる。
29日、夜、村中、地蔵堂で寄り合い評議。
30日、氷川明神で円達院(修験)によって護摩修行をした。
護摩料やその他の費用は次の通りで、11軒で負担した。
護摩には、一升の御神酒に供物を捧げ、灯明を上げ、豆腐で食事をしています。(杉本家文書上巻p208)
この地方での百万遍念仏は
・部屋の中で大きな輪の数珠を繰り合って念仏を唱える方法
・講中のメンバーが揃って白衣を着て鐘を鳴らしながら念仏を唱え各家をまわる方法がありました。
・今回は、隣村・小川村(野火止用水を境に接する)での大量罹患の空気が伝わったのでしょうか、
・各家をまわって、禍が来ないように丁寧に祈ったことが考えられます。
そして、総仕上げに
・修験が氷川明神の神前で護摩を焚いて祈願をしています。
3地蔵堂と杉本の里
4女講中の宝篋印塔(ほうきょういんとう)
狭山円乘院に百万遍念仏を唱えた女講中が建立に助力した宝篋印塔がまつられています。
今回紹介の時期より早い文政 4年(1821 )の造立です。
基礎部分に施主総檀家中、その下段に「成功補 念仏 女講中」とあり、その力強さが偲ばれます。
令和の「コロナ」が一刻も早く収まるように祈りながら、紹介します。
(2020.10.05.記 2021.07.17.一部書き換え 文責・安島喜一)