東大和市の地名(1地名のあらまし)
東大和市の地名(1地名のあらまし)
「おれーらの芋窪って村の名前は、どうやってつけたんだや?」
「芋と窪だぁから、芋が、窪(くぼ)い畑で、うんととれたんだべ」
「そうじゃねえ、おらが爺の話だと“井の窪”で、水がたんと出たからだとよ」
「だぁけんど、原の方じゃ、ちっとも水はねえぜ」
「そんだって、名前が付いた頃、住んでたとこは原じゃなくて、谷ッだんべ」
「・・・・・」
「それに、鹿島様には“奈良橋郷”って棟札が残されてんぜ」
「それも、地所の名前かや?」
「古いらしいぜ」
東大和市芋窪にある豊鹿島神社の本殿の前、古老が盛り上がります。
東大和市の地名は、時期によって変わっています。3回に分けてお付き合い下さい。
1地名のあらまし
2江戸街道まで
3江戸街道から野火止用水まで
(1)古代・中世=郷の時代
東大和市域内には僅かですが、先史、古代からの遺跡があります。
しかし、村や地名の名を表す遺物は発見されていません。
中世になり、「郷(ごう)」が形成され、東大和市にも出番が来ます。
狭山丘陵周辺には下図の郷があり、奈良橋郷がありました。
「奈良橋郷」については、あまり知られていません。
豊鹿島神社本殿の創建棟札に、はっきりとこの名前が記載されています。
当時の東大和市域は「奈良橋郷」全部と「宅部郷」の一部で成り立っていました。
・奈良橋郷は現在の芋窪から、蔵敷、奈良橋、高木の地域と考えられます。
・宅部郷は村山下貯水池付近から、東村山駅付近までの大きな地域で
・東大和市域と東村山市域が一緒になっていました。
・現在の両市の区域割りとは違う状況であったと推測します。
・これらの郷名は東大和市内では次の資料に書かれています。
・貞治 2年(1363) 普済寺版刊経
宅部美作(みまさか)入道貞阿 高木二郎左衛門入道
・応永24年(1417) 関東管領上杉憲基文書 宅部下総入道
・文政元年 (1466) 豊鹿島神社棟札 武州多東郡上奈良橋郷
・天文19年(1550) 豊鹿島神社棟札 武州多東郡上奈良橋郷
(2)いよいよ、村名が現れる(江戸時代初期)
「そんじゃー、“芋窪村”とか“奈良橋村”とかは、どうやって、できたんだや?」
その名前は突然現れます。天正19年(1591)です。
・徳川家康が関東に移り、家康直属の家臣が東大和市域内にも配属されて来ました。
・その時、家臣が領地を与えられた書状に、いきなり村の名前と石数が書かれていました。
・その名前は「芋窪」「奈良橋」「高木」「後ヶ谷(うしろがや)」「清水(しみず)」村でした。
・丘陵の谷筋を中心に散在していた集落が集められ、一定の区域を区切って村名が付けられたようです。
・例えば、芋窪村となった地域には、いつも村人達が呼び合っていた
槌が窪(つちがくぼ 宅部川の源流)、薬師峰 (慶性院薬師堂)
滝沢、西谷(にしやつ)、鹿島谷(かしまやつ)などの地域と地名がありました。
・その他の地域も同じように、その地に合った地名が付けられていて、村にまとめられました。
(地名は例示です。全体は調査中です。)
・新しく村の名前が出来て、古い地名は
芋窪村 字・槌が窪
というように「字」(あざ)名になりました。
・これまでの奈良橋郷と宅部郷は姿を消し、「武州多東郡」となります。
ちょっと横道(字の統一)
「芋窪村の下に、字ができて、“槌が窪”や“薬師峰”が字になったことはわかった」
「ところで、今は、これーらの名は全然聞かれねえけんど、どこへ行っただや?」
「・・・・・」
地租改正と地番・地名
明治6年(1873)7月28日に行われた地租改正が関係します。
・税は全て貨幣とする
・土地の私有と公有を確認する。そのため
・地域名で呼ばれていた土地に地番をつける
・収穫高でかけられていた税を土地の価格によってかける
ということで、
・土地の関係の地図「地引絵図」をつくる
・田畑一筆ごとの地価調査を行なう
ことになりました。
・東大和市域で、地価調査は明治6年(1873)9月頃終わったようです。
・続いて、明治7年(1874)に地図を作ることになりました。
大仕事で、主に、これまで名主だったような村の代表者が講習を受けて地図作りを担当しました。
・明治7年(1874)8月に取りかかり
・11月25日に神奈川県に提出予定でしたが、間に合わず
・延期の願いを出しています。いつ提出したのかは調査中です。
◎この時に、これまで、それぞれの地形や状況によって付けられていた比較的小規模な地域の地名が少し大きめにまとめられたようです。
◎そして、「芋窪村」では“槌が窪”や“薬師峰”が〔上石川〕にまとめられました。
「それで、“槌が窪”がなくなったのか・・・」
「あそこには、池の主の“つちんど”が住んでいたそうじゃんか!」
「よもやまばなしに伝わるよな」
「それが、上石川じゃー、場所は解るけんど、あんだかつまんねーなー」
もう一つ横道(明治以後の名前)
話題を秘めた各地の地名は明治の変革を経て、上図のようにまとめられました。
・例示です。全体は次のページの小字図をご覧下さい。
・本当に残念ですが、細かく地域の特色を表す、独特の名前は消えました。
これらの地域名は大和村になった時(大正8年・1919)、大和町になった時(昭和29年・1954)、東大和市になった時(昭和45年・1970)、いずれも「大字」「小字」として使われました。
大和村 大字芋窪 字上石川〇〇番地
大和町 大字芋窪 字上石川〇〇番地
東大和市 大字芋窪 字上石川〇〇番地
(3)町名地番整理
その後、更に変化しました。東大和市は昭和48年(1973)~昭和56年(1981)に、町名地番の整理をしました。
地域に残る古い名前を使いながら次のように新しい地域名がつくられました。
東大和市 大字芋窪 字上石川〇〇番地は
東大和市多摩湖町3丁目○○番地になりました。
「わかった、これは大ごとだ」
「石川は貯水池に沈んじゃって、多摩湖だし・・・」
「西谷ッは、芋窪二丁目だとよ」
「二丁目には、どこの谷ッが入るんだ?」
「古い名前は、すっかり、見当たらねえ」
「郵便や荷物の配達、最近はやりの個人ナンバーの時代、しょうがないってコト?」
「でも、何かの形で、記録だけでも残して、教えて欲しいわ」
「そうよ!そうよ!」
急に若者の声が入って、江戸時代まで戻ることにしました。
次に続けます。
(2021.02.04.記 文責・安島)