東大和市の地名4(野火止用水まで)
東大和市の地名4(野火止用水まで)
東大和市域の村々は、1670年代になると、下図のように、南台、新街道、大久保、向原、山神、下仲原等の地域を開墾し、野火止用水周辺にその動きを進めてきました。
寛文9年(1669)、高木村の検地帳に、海道内、海道向、中原の地名が記載されます。
延宝2年(1674)になると、堀端、堀際、後ヶ谷戸境などが記されて、野火止用水際や隣りあった村々との境界を開発したことがわかります。今回はこの地域の地名を採り上げます。
芋窪村、蔵敷村、奈良橋村の村人たちです。
「ようやく青梅道に出たな」
「こねえだ迄は江戸街道が主だったけんど、今じゃ、こっちの方が盛りだな」
「青梅橋には茶店もあって、稲荷様がまつられてんぞ」
小川村の開発が進んで、新しい村が生まれ、青梅成木から江戸への石灰運搬の中継ぎ場が設けられました。このため、青梅や江戸、八王子などの交通が頻繁になりました。それらの動きに敏感な村人達は一気に開墾を進め、一帯を畑に変えました。いよいよ地名です。
芋窪村の人々です。
「芋窪としちゃ、青梅道の近くは街道の名を付けてえな」
「でも、江戸街道と重なっちまうぜ」
「そんじゃー、新街道にしたらよ」
「そうよな、こっちの方が新しいもんな、新街道がいい」
「その向こっ側は上水に近くてくぼいじゃんか」
「あんだか、くぼは国分寺辺りから連なってるらしいぜ」
「そうよ、やっぱし、長窪だんべな」
よくもこの名を付けたりです。ここは国分寺崖線の一端に位置します。
国分寺崖線が微妙に窪に変わるこの地点は、玉川上水・野火止用水開削の基本地点となったと思います。当時の地形やそ状況を知りたいです。
この地点では、玉川上水・野火止用水に沿って細長く砂川村(現立川市)の土地が入り込んでいて、東大和市域の村人達は玉川上水、分水口には直接に接することは出来ませんでした。蔵敷村の開発地域から野火止用水に接します。
蔵敷村の人々です。
「俺れーらも青梅道を使うべえ」
「奈良橋で早くに打ち上げてんから、やっぱし新街道かな」
「西と東に分けたらよ」
「西新街道、東新街道か」
「よーし、今度は南っ側だ」
「ここは、俺れーらが、はな(最初)から開墾して来た所だもんな」
「開発がよかんべ。他にはねえ(無い)」
奈良橋村の人々です。
「俺れーらは、絶対、青梅道を名にすべえ」
「早えところ、打ち上げろ」
「もう、早っくから話は通してあらー」
「北っ側はどうする」
「青梅道北もいいけんど、隣に併せて新街道北にするべえ」
「織部塚んとこは、でえじ(大事)だな。馬立て場もあんし」
「やっぱし、堀にちけえから、堀塚だんべ」
とそれぞれの名を付けました。
全て想像です。スムーズに事が運んだかどうかは不明です。
青梅橋です。
この地域は独特の雰囲気を持っていました。
「やっぱり、賑わってんな」
「橋場(青梅橋)だし、稲荷様もあん(在)しな」
「こっちは馬を繋ぐとこだんべな」
「茶店には女しも居んぞ、酒もあん(ある)だんべな」
「あに云ってんだ、昼間っから」
広域交通の府中道と青梅道の交差部には野火止用水に青梅橋が架かり、休みどころを兼ねた数軒の家と馬立て場がありました。また、地元の有力者の織部塚があり、稲荷様がまつられていました。
延享3年(1746)『里正日誌』では、青梅道・府中道共に道幅は2間(3㍍60㌢)と記されています。
交通に重要な役割を果たした馬を休ませる馬立て場の大きさは5間余(約10㍍)としています。
高木村、後ヶ谷村、清水村の人々です。
これまで開墾した、向原、山の神、仲原からは、野火止用水が間近でした。
野火止用水際まで一挙に開発が進みました。
「小川村とどうやって境を決めるかな」
「そりゃ、堀の真ん中よ」
「そうだよな、堀を越したら、あにか問題になるべえな」
「そこいらは、偉いさんに任せて、俺れーらはここで、止めとくべえ」
堀の中央に境界が決まり
高木村では用水北・用水向
と決まり、高木村は用水縁に細長く開発しました。水車場の計画があったとします。
後ヶ谷村では新堀北と南になりました。
この地域の境界の入り込みの激しさは特別で、何らかの出来事があったと推定されます。
清水村では上新堀・下新堀の名が付きました。
延宝2年(1674)高木村検地帳に、堀端、堀際の地名が出てきます。
この時期には野火止用水際まで開発が終わっていたことを示します。
寄り道
境界の入り組み、村の自立
「野火止が掘られてよ、20年だ」
「耕せる、てえげえのところはすませたな」
「よくやったーなー」
「残すとこは、村境だ」
「こりゃ厄介だぞ]
「ちっとんべえ、落ち着いてからにすんべえ」
お互いの境界となる場所は昭和に至ってもギザギザに入り込んでいました。
互いの主張は激しく、折り合いも難しかったのでしょう。
その自立心の故でしょうか。明治になり、村々は再三合併を勧められても、ついに、大正8年(1919)11月1日、大和村になるまで、村の独立を主張して、合併をせずに、「高木村他五か村組合村」を形成していました。
年貢の減免
「畑のかっこうは出来たけんど、とてもじゃねえけど、作物はとれねえな」
「そうよ、この荒地じゃ、堆肥だけじゃ追っつかねえ」
「干鰯(ほしか、鰯を干した肥料 江戸から購入)を入れるようだんべ」
「時に、年貢はどうなんだや?」
「頼りは名主さんよ。度胸に賭けべえ」
「よーし、皆で頼みにゆくべえ」
この交渉は相当な苦労があったと推察します。
結果、土地の評価は「当開」「当荒」で下々畑に位置づけられました。
さらに、運動は続いたらしく、「林畑」という評価もあります。
村に全部の名が付いた
こうして、各村の開発は1670年代には、狭山丘陵の麓から野火止用水際まで終わりました。
その各地の名前も下の図のように出そろいました。改めて全体を通して見ると、東大和市域の村々の先祖達が、いかにその時、その場に適合した名前を付けていったかの実直な感覚が偲ばれます。
しかし、実際に使われていたであろう検地帳に載る地名がなくなっています。明治6年(1873)地租改正が行われました。その際、それぞれの土地に地番を付けるため、地名が統合され、整理されたことが考えられます。
当時は新政府のもと小さな村を集めて、区番組制がとられ、神奈川県十一区十番組として芋窪村、蔵敷村、奈良橋村、高木村、宅部村、後ヶ谷村、清水村の7村が集まって、一つのグループを構成していました。代表者に蔵敷村の内野杢左衛門、副代表に高木村の宮鍋庄兵衛が任命されていました。この中で、全体的な地名の調整が行われたことも考えられます。その過程は明らかではありません。検地帳の地名は別に記します。
地名は様々な要因から成り立ち、歴史を秘めています。そして、昭和48年(1973)~昭和56年(1981)にかけて行われた町名地番の整理で、現在を迎えています。
今後とも、皆さんのお力添えを得て、埋もれた地名の発掘に努力し、よみがえらせたいです。
(2021.02.27.記 文責・安島喜一)