くずっぱはきと狭山貯水池愛護会

くずっぱはきと狭山貯水池愛護会

 くずっぱはきは村山貯水池と大きな関係を持ちました。
 村山貯水池が出来て、貯水池に面する山林は保水林になりました。

村山下貯水池、奥に中堰堤 周辺の山地は主に雑木林で豊富な落ち葉が集められた。クリックで大

 そのため、落ち葉の利用は制限されました。ところが、昭和19年(1944)頃から戦後になると、事情が変わってきました。『東大和のよもやまばなし』は次のように記します。

 「貯水池が出来てからは長い間、関係者以外は足を踏み入れる事もなかつたのですが、終戦の頃になると燃料不足から、盗伐が増えて山が荒らされ、管理事務所では手をやいていました。

 そこで当時の所長、儘田(ままだ)さんが中心となって「郷土の誇りとして欲しい」と八ヶ村の村長等に呼びかけて理解を求め、「貯水池愛護会」を結成しました。(中略 愛護会については別にまとめます)

村山上貯水池(右)と中堰堤を挟んで下貯水池(左) 上貯水池は大正13年(1924)、下貯水池は昭和2年(1927)完成
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 貯水池愛護会の運営費は、山のくずはきを希望者に割付け、それで得た収入を充(あ)てました。現在(昭和50年・1975)でも一部の農家では、一反(千平方メートル弱)当り二百円払ってくずはきをし、肥料やさつま床に利用しているそうです。」(『東大和のよもやまはなし』p161~162)

 として、森を失った村人は「落ち葉はきの」場所を再び得ました。また、落ち葉が「貯水池愛護会」(正式名・狭山貯水池愛護会)の運営費になりました。その様子を『東大和市史資料編』2から引用します。(一部省略)

 「終戦直後の食糧難の時代、大和村においても食糧増産を図らなければならなかった。農業にとって堆肥(たいひ)は欠かすことができないものであり、農産物の大きな割合を占めた甘藷(かんしよ)作りのための苗床にもなくてはならないものであった。

貯水地域内への出入り口 戦前はもっと簡易な物で、戦後無断で雑木の盗伐などが行われ、柵が設けられた。
ここから、くずっぱはきの村人が出入りした。クリックで大

 しかし、当時の大和村では、燃料の工面もままならない状況であり、とても村の中で、調達することはできなかった。そこで、東京市民の水がめである村山貯水池周辺の山林の落葉はきを許可してもらいたいとの村民の強い要望があげられた。

この道を下ると旧石川の集落に達する。クズハキはこの周辺でも行われた。クリックで大

 その結果、地元農民の要望が認められ貯水池林での落葉はきが実現されたのである。ところが、貯水池完成以来水質管理のために一般人立入禁止区域であったために、最初のうちは、落葉はきというより山林の手入れ、下刈りといった感があり農民あげて下枝や下草伐採にあけくれ、落葉もひざまでつかるほど堆積していたという。
 それ以来、毎年暮れになると多少でも農地のある人は、落葉はきに参加してきた。

豊富な落ち葉、葉に厚みがあり、肥料としての質がよく、また、燃料としても重宝に使われた。
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 農家の人びとは、申し込んだ分の立入許可を受けて、その面積に応じた代金を支払っていた。
 一九六三年(昭和三十八)ごろは、一反歩(約九九〇平方材)二三〇円前後であった。各自の支払いは大きな籠(八本骨)の数によって行われた。

八本骨・八本ビネリと呼ばれた大かごを背負って、斜面を登った。クリックで大

 落葉はきを許可されていた貯水池周辺町村からの収入をもとに「狭山貯水池愛護会」が結成され、貯水池の風致保護、観光施設の整備、また、過去五十巻以上も発行されてきた機関誌「狭山」の出版費に活用されたという。

 いずれにしても、落葉はきは、水道局、地元農民にとってそれぞれ利益をもたらしたといえる。」(p131~132)

 落葉はきに参加した町村は次の表の通りで、当時の大和村は村山村に次いで多くの区域を利用していました。  

落葉はきに参加した9町村 クリックで大

 なお、除地は、水辺から一〇㍍以内は水質保持のため、くずはきが禁止されたので、それらの区域を示します。
 ちなみに落ち葉代金の年間予算総額は、昭和25年(1950)、68万7000円となっています。この財源をもとに狭山貯水池愛護会の様々な活動が行われました。
 落葉はきは、平成5年(1993)、78人の方々が利用されています。(『東大和市史資料編』2p132)

  (2021.05.04.記 文責・安島)

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