小川仮郷学校(明治初年)2

小川仮郷学校(明治初年)2

 明治4年(1871)4月のことです。

 「こりゃー、あんだや」
 「小人閑居して不善を為す」
 「暇になると、ばくち打ちとつるんで、ずる賢くなる」
 「だあから?」
 「学校つくって、良くすんだと」

 「俺れーらのこと云ってんだんべ」
 「ひでえ、話だ!」
 「維新でもあんでもねえじゃんか」
 「五箇条の御誓文はどこへ行っちまっただ!」

 村人にこんなぼやきを生んだのではないかと思われる「御達」(おんたっし)です。蔵敷村の内野家に届けられました。

韮山県庁東京出張所から届いた文書
クリックで大

 韮山県庁・東京出張所からの通知です。
 さすがの村人もびっくりしたでしょう。意訳します。

 「四月学校創設の御達

 考えるに、民の事は緩(ゆる)やかにしてはいけない。小人閑居して不善を為す、農民は耕作の余暇、一定不変の道徳心がないと博徒に親しみ、遂にはずる賢い風習をあおり立てる。

 よって、管内に小学校を草創し、書と数とを教え習い、だんだん、淳風(人情がこまやかで素朴な風習)に導きたい、と太政官(新政府)に申しあげた。

 その結果、各県の管轄1万石に付き米1石5斗の割合で、郷学校の入費にしてもよいとの御布令があった。
 ついては、当管内での学校の数・場所、入費不足の償い方、その他とも、充分に協議して、全ての寄場役人が連署して申し出るように。 
   明治四年四月」

韮山県の仮郷学校

 明治新政府は、すでに、明治 2 年(1869)2 月、「小学校ヲ設ル事」を打ち出していました。
 読み書き算を学ぶと同時に、忠孝の道を習得させることが目的とされました。
 しかし、東大和市域周辺では、まだ設立されていませんでした。そこに届けられた御達です。

 東大和市周辺は江戸時代には、幕府代官・江川太郎左衛門がおさめていました。
 江川氏は維新後、すぐに知県事に任命されました。
 そこで、所管する地域は江川氏の本拠地、伊豆の韮山の名をとって韮山県になっていました。
 文書はその韮山県庁・東京出張所からのものです。

 当時、東大和市周辺は、新政府の政策から、やや広域の村々が集まって「小川寄場組合」を構成していました。
 蔵敷、奈良橋、高木、後ヶ谷、宅部、廻田、久米川、南秋津、小川、小川新田、廻田新田、榎戸新田、平兵衛新田、上谷保新田の 14 か村です。(構成する村の数は年によって微妙に異なります)
 文書はその代表の一人である蔵敷村の内野杢左衛門さんに届けられました。

小川仮郷学校建設時の小川村寄場組合構成村 クリックで大

 教育熱心だった村人達は、さっそく学校を作ろうと決めます。
 明治4年(1871)5月10日、その回答をします。
・学校は寄場組合ごとに一校ずつ設ける。
・校舎は当分の間、寺院の堂社内に用意する。
・費用は組合ごとに割り出す。

 として準備を始めました。すると 
 7月22日、次の文書が来ました。韮山県庁から直接で、仮郷学校の中身を知らせるものでした。

韮山県庁からの郷学校についての通知
クリックで大

 今般の仮郷学校のことは、農民子弟ノ為に設立するもので、
・素より性命(生まれながら天から授かった性質と運命。いのち。生命)の精微を談論するには及ず、
・およそ弟子たるものは人倫常の道を講明(研究して物事の意義や本質をあきらかにすること)し、
・家にては父兄につかえ、外にありては長上につかえ、
・各々がその業を勤め、その職を励み、
・皇国、支那、西洋等の歴代治乱興亡、国体人情に至るまで、
・大まかに大意を弁知(わきまえ知ること。思慮分別のあること。)し
・人才教育の基本に付
・管内の村々役人とも、何れも厚き御趣意を体認致して
・区内にてなるだけ、四方からみて距離が等しい場所の寺院に
・仮郷学校を設け、
・区内村々有志輩の子弟、八才より十五才迄の者
・日々学校へ出席、
・素読、習字、算術等を修行、勉強すべきである。
・・・・・
後の方は省略します。(この通知では仮郷学校になっています。なぜ仮になったのかは調査中です)

小川組合仮郷学校の設置

 貧しいけれど教育熱心な村人達はどんな気持ちでこの文書を受け取ったのでしょうか?
 後に自由民権運動を積極的に進める人々です。さぞ、複雑なものがあったと思われます。
 村人達は小川村の小川寺(しょうせんじ)に仮郷学校を設けることにしました。
 そして、次の規則を定めました。

小川組合仮郷学校規則(小川村 小川寺)
クリックで大

 小川組合仮郷学校規則(小川村 小川寺)
・校中の規則、臨時の命令はきっと守ること
・稽古がどれほど上達しようとも農業の本業を怠らないこと
・学校に入り、修行する上で、諸事は教師の指図に従い、生徒一同行儀を第一にして、
 道の途中で合った時も、相互にていねいに挨拶し、無礼のないようにすること

 ここにも命令を守り、農業を本務として、怠らないようにと釘を刺します。
 武蔵野の原野を苦労して新田開発して村を築いて来た人々です。
 維新の新しい空気にこれからの期待を膨らませていた人々です。
 村人が独自で決めたらもっと他の事を書いただろうにと気持ちがおさまりません。
 恐らく、統一的な文面が配布されたのでしょう。『里正日誌』には、経過も何も付さずに、ポッツりと記されています。

 こうして、8月1日、仮郷学校は小川村の小川寺に開校されました。

 同じような文書を並べました。
 明治維新を迎えて4年、当時の多摩はどのような状態であったのか知りたい一心で資料を探しています。
 そこで、これらの文書に出会いました。
 上から目線で、しかも、農業を本業と縛り付ける念押しが、やけに目に付きます。
 ペリー来航時、緊張極まりない対外政策に当たった江川采配とあまりの格差に驚きです。
 県は太政官に上申した結果としています。とすれば、出来たてほやほやの太政官がとった、江戸周辺に対する認識と政策だったのでしょうか?

 長くなるので、仮郷学校の内容については、次の小川仮郷学校3に続けます。

 (2021.06.20.記。文責・安島)

 小川仮郷学校1
 小川仮郷学校3

 大まかな歴史の流れ 現代 明治時代

次の記事

小川仮郷学校(明治初年)3