小川仮郷学校(明治初年)3

小川仮郷学校(明治初年)3

 小川仮郷学校は小川村の小川寺(しょうせんじ)に設けられました。小川村開発の祖・小川九郎兵衛の墓塔をまつるお寺です。

小川仮郷学校が設立された小川寺
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開校式

 明治4年(1871)8月1日、開校式が行われました。小川村組合を構成する村の代表者が集まりました。
 「寄場役人惣代戸長小川弥次郎、助教授宮崎義智、(内野嘉一郎)、小川新田、廻り田新田、高木新田、榎戸新田、高木村(宮鍋庄兵衛)(尾崎伝蔵)、後ケ谷村(杉本勘左衛門)(真野新右衛門)、宅部村(榎本半兵衛)、奈良橋村(鎌田藤九郎)、押本某、内堀大一郎・・・他各村の有力者です。(杢翁記録による)
 ()内は後の自由民権運動に関わった人名で、この時から社会的な活動をしていることがわかります。
 
就学児

 学校へ通うのは、村々有志輩の子弟で、8才~15才が対象でした。
 実質的には富裕階層の姉弟が就学したと思われます。
 東大和市域では「高木村から二人、後ヶ谷村二人、宅部村一人、奈良橋村三人などが名を連らねていた。」(『東大和市史』資料編10p54)としています。

通学路・通学方法

 小川寺は下図の位置にありました。現在は各地域から交通機関が備わっていますが、自転車もなかった時代です。まして、8才の子ども等はどのようにして通学したのでしょうか? 

小川仮郷学校建設時の小川村寄場組合構成村 クリックで大

教員

 助教として宮崎義智(神明宮神官)と内野嘉一郎(一ノ区戸長・杢左衛門長男、名主見習)が任命されました。内野嘉一郎は後に杢左衛門秀峰を名乗り、戸長を勤め、神奈川県議となり活動の幅を広げます。その過程で小野郷学校の創設にかかわったとされる石坂昌孝と出会い、狭山丘陵周辺の自由民権運動の芽生えとも云える「衆楽会」(明治11年・1878)、新聞購読会の活動を推し進めています。

教科

 韮山県からの通知では、次のようになっています。

小川仮郷学校の教科
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 少し解りにくいので 『大和町史』の記述を引用します。

 「教科組織の骨組となっているものは、まず句読・解読・講究の三科でこれが段階的にたてられている。
 三科の内部が、またそれぞれ段階的に下級・中級・上級に分れている。
 かくて句読の下級から講究の上級に至って正科を終ることになる。

 授業は、各科目中の一書をとり上げて学習し、その一書が終れば、次の一書に移るという旧幕時代の授業形式がそのまま取り入れらている。勿論テキストの選択は教官が行うのであり、生徒の選択を許さない。」

小川仮郷学校の教科一覧
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 現在の小学校とは比べものになりません。
 8才の子どもがこれらに接し、どんな気持ちだったか、ただただ、
 「大変だったな」
 と頭を下げるほかありません。

韮山県から神奈川県に

 仮郷学校の設置が進む中で、明治4年(1871)7月14日、廃藩置県の証書が発せられました。
 韮山県は廃止、神奈川県となります。東大和市域の村々が実際に神奈川県になるのは芋窪村を除いて明治4年12月、芋窪村は明治5年(1872)1月、神奈川県になりました。

 神奈川県は明治5年8月9日、郷学校について神奈川県の村々に通知を出します。蔵敷村はまだ韮山県に属していましたが内野氏はその通知を写し取っています。参考になりますので紹介します。

・経費について  七分富者 三分貧者とし
・富人貧民を侮り、貧民みだりに富人を貪る(むさぼる・欲しがる・羨ましがる)べからさるは勿論なり
・学費は学校に遠近に従い増減するべし
 として、下表のように定めています。学校との距離の遠近、また、身代の上、中、下に応じて負担額が安くなっています。

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◎毎月の学費は次のようでした。

・貧富にかかわらず一家一人の場合
 入門料 米一升
 毎月料 米二合
 盆 暮 米五合 

・一家二人の場合 
 入門料 米二升
 毎月料 米三合
 盆 暮 米七合五勺 (『里正日誌』12p140)

 代金あるいは現米で集めるのも勝手

 こまごまと統一的に決めるのは、この時代の特徴でしょうか。

終わりに

 明治5年8月3日、文部省布達による「学制」が公布されました。村々は自分の村に新しい小学校を建設しようと一挙に動き出します。それに合わせて、小川仮郷学校は終わります。
 
 様々な努力が注がれたことはうかがえます。
 そうした中でも、厳しい論評があります。『大和町史』の編者・伊藤好一氏の記述です。

 「こうして、為政者による統一的な民衆教育組織が立てられることになったわけである。
 古い寺小屋式教育から見れば、整然たる教科組織が立てられ、地方の民衆教育としては飛躍的な進歩と見られるが、しかし教科内容は、かっての武士層の教養としていた漢学が重視されて、民衆が求めていた「読み、書き、そろばん」を学ぶこととは、やや程遠い感がする。
 旧幕時代の武士的教養を、押しつけるにとどまっていると言えそうである。

 仮郷学校の目的とするものは、どこまでも「農民耕作ノ余暇恒ノ心ナケレバ博徒ニ相親狡猜ノ風ヲ煽動」することを憂えた旧幕府的為政者が、「家ニ在テハ父兄ニ事へ外に在テハ長上ニ事へ各其業ヲ勤メ其職ヲ励」む為に設置するのであって、「性命の精微(緻)ヲ談論スル」ものではなかったのである。
 八月十日には、韮山県出仕関岡尚志が廻村して来て、仮郷学校について規則命令の遵守を申渡しているが、そこでもなおあらためて、「農家の本業怠る間敷事」を強調している。
 農民が、耕作の余暇に恒心を養うことが目的であり、実学的なものを学ぶものではなかったのである。」(『大和町史』p329~330)

 維新! これからの新しい世界を担う世代の教育!
 どのような展開をしたのか、期待を籠めて資料を集めています。今後も続けたいと願います。
 ご教授お願いいたします。

 (2021.06.21.記 文責・安島)

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