鎌倉時代、東大和地域の武士団は?(東大和市の中世1)

鎌倉時代、東大和地域の武士団は?(東大和市の中世1)

 狭山丘陵周辺の中世の初期は武蔵七党の時代に当たります。東大和市域には、どのような武士団が定着していたのでしょうか? 残念ですがはっきりしません。

武蔵七党

 治承4年(1180)、源頼朝が伊豆で挙兵しました。この挙兵に武蔵七党の面々が加わっています。何が武蔵七党か、については諸説あります。
 「武蔵七党系図」(『続群書類従』第四輯上)では、野与・村山・横山・猪俣・西・児玉・丹
 『節用集』(日本古典全集)では、丹治・私市・児玉・猪股・西野・横山・村山
 の七党としています。

村山党・西党の分布図
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 『大和町史』では、第一説として横山、猪俣、野与、村山、児玉、丹、西党をあげて、二説、三説として、綴(つづき)、私市(きさいち)を加える説を紹介しています(p125)。そして、「村山党は北多摩郡村山・狭山・久米川・山口・野口にかけて、狭山丘陵を控えた地を領し、この一族は村山・大井・山口・金子・宮寺・広屋・須黒・仙波・荒波多・久米・難波田の諸氏に分れている。」(p127)としています。

 これらに基づき、狭山丘陵周辺の同族的な武士団(山口、荒幡、久米、宮寺、金子氏など)をあげてみます。
 問題は村山党の本拠はどこにあるのかです。山口氏か、それとも南麓の村山地域に村山氏が拠点を構えていたのか、これにも諸説があり、確定できません。

 建久元年(1190)11月7日、頼朝は京都に入ります。この時の先陣として、山口小七郎(=家継)・仙波次郎・山口次郎兵衛尉・金子小太郎、後陣に、金子十郎・仙波平太・山口小次郎らが供奉しています。

 承久3年(1221)、承久の乱が起きます。その際、狭山丘陵周辺では、村山党の武士として、金子・宮寺・勝呂・山口・仙波・久米氏などの名が記されて、参戦しています。いずれも狭山丘陵北麓地域で、東大和市が位置する南麓地域については確認できません。

村山党に属したのか?

 武蔵七党の武士団に属し、狭山丘陵周辺に拠点を置いたのが「村山党」でした。村山党の系図があり、党祖=貫首からそれぞれに分派し、近接地域に棲み分けたことがわかります。

 村山党は秩父氏一族と火奉氏(日奉氏)一族が構成した武士団の空白地=狭山丘陵周辺に拠点を置きました。村山貫首を除いては、分出した一族の所在はほぼ推測できます。ところが肝心の党祖=村山貫首の拠点が不明です。

中世初期の村山党
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 東村山市史は次のように説明します。

 「・・・、系図によればこの「村山貫首」という名乗りは頼家までで、その子孫は名乗っていない。村山党は、頼家の後四家に分立したようだが、その名乗りを見ると、大井・宮寺・金子・山口であった。そして、その四家のなかからさらに難波田・仙波・須黒・久米・荒波多・広屋氏などの諸氏が分立していった。これらの名乗りの地名からも明らかなように、村山党は狭山丘陵周辺を拠点にしつつ、川越・児玉方面に勢力を拡大していったことがわかる。

 と同時に注目しなければならないのは、山口家継が一時「村山小七郎」と名乗っていたようだが、後に「山口七郎」に変えているように、実は「村山」を名乗るのは頼任と頼家の二代だけであって、その後は「村山」を名乗る家がなくなっていることである。このことから、本来的に村山党などというまとまった同族的な武士団は存在せず、「村山地方を中心として分布していた小武士団の諸氏が、頼任・頼家という共通の祖先から出たと称して団結を強めたとみる方がよさそうである」という評価も可能になる(『東村山市史』・一九七一、一八八頁)。」(東村山市史上p363)

山口氏の城跡
埼玉県所沢市
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 この時代の東大和市域の人々は、村山党の山口氏に属していたのでしょうか?
 それとも、別に村山氏が地域を定めて統治し、そこに属していたのでしょうか?
 これからも調べ続けて行きたいと願っています。

  (2019.03.01.記 文責・安島喜一)

 村山党の武士の館 

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