文化元年(1804)の道しるべ 東大和市狭山・霊性庵

文化元年(1804)の道しるべ 東大和市狭山・霊性庵
 
馬頭観音碑(高さ60㌢)の両側面が道しるべとなっています。
地名の扱い方が鮮やかです。
狭山・霊性庵の本堂裏側に多くの石造物と共にまつられています。

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正面
文化元子年(ね)
馬頭観世音
三月二十七日 後箇谷村(後ヶ谷村 うしろがやむら)
 
文化元年(1804)3月27日 後ヶ谷村の建立です。
(同時に、左側面に、願主竹内吉右エ門の名が彫られています)
 
後ヶ谷村は江戸時代の村です。
明治8年(1875)宅部村(内堀地域)と合併して狭山村になりました。
位置や合併の経過は「狭山村の誕生」をご覧下さい。
 
道しるべの現在地
 
文化元年(1804)の道しるべは、東大和市狭山、霊性庵の敷地内にあります。

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霊性庵の裏側に後ヶ谷村(狭山村)各地域からの石造物がまつられて居ます。
道しるべの刻まれた馬頭観音は一番奥にあります。
 
右側面

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右 町谷
  所沢
 
下図のように、「町谷」(村)を経て「所沢」に向かう道筋を案内しています。
「町谷」はこの道しるべの建立された江戸時代には、独立した村でした。
明治8年に合併して「山口村」になり、現在は所沢市の地名として存在します。
 
左側面

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石壁と碑の間が20㌢ほどで、カメラが入らず、斜めからの画像をお許し下さい。
 
左 山口くわんおん
          願主
          竹内吉右エ門
 
山口くわんおん=山口観音は狭山三十三観音霊場の一番札所でした。
碑はそこへのお参りする道筋に当たり、人々の交流が多くあったと伝えられます。
 
この時代には「山口村」はなく、山口観音の所在地は「新堀村」でした。
旅人にとっては村名よりも「山口くわんおん」の方がより親しめたのでしょう。

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当時の村の状況から、大まかに位置を入れました。
その後、合併などが進み村の名前には変遷があり、現在とは異なります。
この点、ご留意ください。
 
道しるべの建立された旧地
 
道しるべに刻まれた後箇谷村(後ヶ谷村)は村山貯水池に沈んだ区域から野火止用水に達する細長い村でした。
その中で、願主の住むところは、村山下貯水池に沈んだ北の谷の地域でした。
 
従って、住居地に近いところで、山口観音、町谷、所沢に通ずる峰の道の分岐点に建立されたのではないでしょうか。
(古老に何回かお尋ねしましたが確認出来ません、調査過程での推定です)
湖底に沈んだ区域の復現図に記してみます。
湖面の上では探しにくいですが、下の堰堤から右側、最初に見える出っ張りの辺りです。

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施主の心がこもる碑です。正面が馬頭観音様であることから、当時稼ぎの中心であった農間稼ぎの馬の供養と共に、
扇町屋、所沢方面への交通の無事を願う背景があったのではないでしょうか。
油、肥料、日用品の購入などと共に、蚕や繭、織り上がった製品などの取引も行われたようです。
道しるべと共に、日常の生活圏から外への、また帰りのお守りだったのかも知れません。
 
 (2023.07.19.文責・安島喜一)