寛政3年(1791)馬頭観音(東大和市最古)
寛政3年(1791)馬頭観音(東大和市最古)
奈良橋五丁目 庚申塚墓地 寛政3年(1791)
奈良橋五丁目、庚申塚墓地に、寛政3年(1791)の馬頭観音(板碑型石碑)があります。
東大和市最古の馬頭観音です。(庚申塚墓地と石仏群についてはこちらをご覧下さい)
正面には
天下泰平
馬頭観世音菩薩
日月清明
と彫られていることが記録に残されています。現在、馬頭観世音菩薩は読み取れますが、他は明確には読み取れません。
右側には
願主 武州多摩郡内堀村 内堀金左衛門
とあり、村山貯水池に沈んだ内堀の里で内堀金左衛門さんによってまつられたことがわかります。
左側は一字一字を追うと、ようよう
寛政三(一七九一)辛亥年四月吉祥日
と辿れます。
東大和市内には、寛政3年(1791)から昭和4年(1929)までの間の馬頭観音供養塔が、23基保存されているとされます。ただし、現在、確認できるのは19基です。その中で、今回紹介する庚申塚墓地の馬頭観世音菩薩は最古になります。
馬頭観音の故地
この碑は村山貯水池の湖底に沈んだ内堀地域にありました。貯水池建設による集落の移転と共に、大正八年(1919)、この地に移りました。その経過などは「庚申塚墓地」をご覧下さい。
この馬頭観音像が内堀の里のどこにまつられたのかは、残念ですが、記録に残りません。この地は狭山丘陵の峰と峰との間の狭い地域で、馬を農耕に使うことは考えられません。従って、農業の合間に、江戸へ馬に薪炭などを付けて運び、駄賃を稼ぐ、その貴重な働き手であったことが濃厚です。
とすれば、江戸への道筋が考えられます。図の赤い点が住居があった箇所で、水路に沿って右側へと連なる道が江戸方面への主要な道路でした。そのいずれかの箇所に建立されたと推定しています。
馬を飼育した記録は、『里正日誌』に、元禄16年(1703)2月、後ヶ谷村馬数として、「百姓持馬三拾一疋」とあります。(1巻p218)
内堀の里は、当時、後ヶ谷村の区域でしたので、この時代から、馬を飼育していたことが明らかです。それから約90年後、江戸への駄賃・農間稼ぎは最盛期を迎えます。村人は、馬の供養、道中安全祈願と共に、「天下泰平、日月清明」を刻しています。
内堀の里は決して裕福ではありませんでした。むしろ、生活は厳しかったことが伝わります。駄賃・農間稼ぎも中野、内藤新宿辺りで妨害に遭い、対応への苦労が増していました。その渦中で、「天下泰平、日月清明」を村人達は願います。その心意気が伝わってくるようです。これ以上摩耗することなく、いつまでも貴重な歴史遺産として保存されることを願います。
(2019.07.19.記 文責・安島喜一)