山うなぎの蒲焼きとステッキ

モニュメントへびとステッキ クリックで大

栄公園(さかえこうえん 東大和市南街五丁目)の一隅に奇妙なモニュメントが置かれています。
ほとんどの人が、

「これは何じゃ?」
「コウモリ傘の柄か?」
と小首をかしげます。

ところが、深い背景があり、この地に軍需工場が盛りの頃の記念碑の一つです。『東大和のよもやまばなし』はこう語ります。

青年達がステッキを作っ頃の東大和 クリックで大

「第二次世界大戦の頃のことです。当時の大和村も戦争が進んでくると、配給がきびしくなり食糧も不足になってきました。今まで農業をしていなかった人達も、空地にジャガ芋、とうもろこし、スイートメロン等作りましたが、なれないため失敗した事もあったそうです。

栄養補給のため「山うなぎをたべた人もいた」と聞いたので、よく話を聞いてみたら、それはヘビの事でした。

現在の玉川上水駅付近は、雑木林が続きワンパク少年達の遊び場でした。

そこには長さ七〇センチメートルから一メートル位の、茶色に黒の縞蛇(しまへび)や、青大将、黒い地もぐりが沢山いました。

地方から日立航空機に動員された青年の中に、ヘビ取りのじょうずな人がいました。 まず雑木林から、適当な木の枝を見つけ先を割り、紐をつけた棒をはさんで簡単なヘビ取り器をつくります。

ヘビを取る時は、細工した枝を何本も用意して出かけ、ヘビを見つけたらそっと近づき、首をはさんでひも紐を引くと、ヘビは苦しくて棒にまきつき簡単にとれました。

とったヘビの肉は骨つきのまま、四、五センチメートルに切って串にさして、醤油をつけて焼いてたべました。くさみもなく醤油の味がよくしみて、「山うなぎの蒲焼き」と云って貴重なタンパク源となりました。

又、ヘビでステッキを作った人もいました。肉を押し出すと、むいた皮は裏返しになるので、もう一度表に返るように棒をさします。そのまま水にさらしてから、風通しのよい場所で蔭干し乾燥させると、皮が棒にぴったりとはりついて、立派なステッキができ上りました。

本式には上薬(うわぐすり)を塗って仕上げると、つやもよく、うろこもはがれなかったのでしょうが、塗料もなかったので、そのまま使用していたら、だんだんうろこがはげて来てしまったということです。」 (『東大和のよもやまばなし』p100~101)

背景の説明がほしいと訴える山うなぎの蒲焼きとステッキ クリックで大

工場(日立航空機(株)立川工場)は陸軍への航空機エンジンの製作に当たりました。昭和19年(1944)には、13,896人の従事者が居ました。

全国から徴用工が集められ、併設された青年学校には3000人、その他学徒動員により、若者が多く在籍していました。

昭和20年(1945)2月から4月にかけての米軍機の爆撃により、工場は壊滅しました。幸い、このモニュメントの置かれた地域は、従業員の寮と社宅地域で、爆撃からは逃れられました。

全国から集められた青年たちは、亡くなった人も居ましたが、多くが終戦直後、それぞれの国に帰りました。公園に何気なく立つモニュメントですが、背後には工場での爆撃のすさまじい姿を負っています。

(2017.07.12.記 文責・安島喜一)45

 

東京瓦斯(ガス)電気工業(株)の進出 

東京瓦斯(ガス)電気工業(株)の工場建設  工場と住宅・福利施設の一体建設

東京瓦斯(ガス)電気工業(株)から日立航空機(株)立川工場へ

専用鉄道の設置(現・西武拝島線の一部)

工場の疎開  アメリカ軍の空爆により工場壊滅

日立航空機(株)付属青年学校跡

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