比翼塚(ひよくづか)
明治初年のお話です。
高木神社の東側、少し小高くなった丘の上(松こごれ地蔵の奥・妙楽寺墓地)に、枯れ草に埋もれるように大小の碑が並んで立っています。
宮嶋巌之塚、宮嶋喜与と彫られています。人々は比翼塚(ひよくづか)と呼びます。
『東大和のよもやまばなし』はこの塚について、こう語ります。
「徳川幕府の終りのころ、宮嶋さんは江戸南町奉行遠山家ゆかりの武士でしたが、新政府となった明治二年宮嶋さんは喜与さんを連れ、奉公人の里、高木村の明楽寺の庫裡に留守番として住みこみました。
そして、武士の名「鉄右衛門」から巌に改め、かたわら寺子屋を開いて村人に読み書きを教えていました。
しかし、この明楽寺に戸長役場が置かれた夏の明治六年八月十五日、病により帰らぬ人となりました。
たよる夫に先立たれ、なじみの浅い土地で喜与さんは一人とり残されてしまったのです。
その後、しばらく戸長役場の用を手伝っていた喜与さんは、宮嶋さんの百ヵ日が過ぎた十一月二十六日、ひっそりと夫のもとに旅立っていきました。
その最後はさすがに元武士の妻、乱れぬようにひざをひもで縛り、短刀で命を絶ったということです。」(p211~212)
塚は、ゆかりの人々によって造られました。御一新により、江戸詰をしていた大名はそれぞれの本拠である「藩」に戻りました。所領が激減した徳川家に仕えていた幕臣の身の振り方は大変でした。駿府に戻れた人はともかく、戻れなかった人は、生活の基盤を失い、江戸の町で苦労を重ねたことが伝えられます。
そのような中、宮嶋さんは、つてを頼って明楽寺に居を構えたのでしょう。別の資料(『狭山之栞』p61)では、遠山左衛門尉家口鉄右衛門、復飾の上、神官となるとしています。つつましく寄りそうようにある碑は、一つの時代の象徴のように思えます。
宮嶋さんが一時執務した旧組合村戸長役場の文書庫が高木神社と社務所の間に残されています。