2019年2月26日 / 最終更新日時 : 2021年12月5日 musashinoaj 7近世 清水庚申神社の庚申塔(東大和市郷土資料) 清水庚申神社の庚申塔(東大和市郷土資料) 所在地 東大和市清水3丁目869番地 高木神社方面からの清戸街道、清水神社方面からの古道が交差する三叉路 東大和市郷土資料 昭和49年(1974)9月20日指定 指定理由 […] 共有:Tweet
2019年2月25日 / 最終更新日時 : 2024年2月17日 musashinoaj 8現代 村が迎えた明治元年 村が迎えた明治元年 明治を迎える村は大きな緊張に包まれていました。東大和市域の村々の明治元年の出来事を追ってみます。 慶応4年(1868)1月です。 「1月1日、門松を立つる事を止(とど)め、年礼を休す」 と隣接中 […] 共有:Tweet
2019年1月28日 / 最終更新日時 : 2020年9月14日 musashinoaj 7近世 江戸へ石灰を運ぶ道(最初の江戸街道・青梅街道) 江戸へ石灰を運ぶ道(最初の江戸街道・青梅街道) 今では想像も出来ませんが、狭山丘陵の麓から南側は人家も何もない、武蔵野の原野が広がっていました。そこに一筋の道が出来ました。そのお話です。 東大和市周辺には、狭山丘陵の […] 共有:Tweet
2019年1月27日 / 最終更新日時 : 2023年6月25日 musashinoaj 7近世 村に来た地頭様 村に来た地頭様 家康の家臣が村に来たのは、江戸市中が未整備なことと、つい先日まで後北条氏支配であった村々の治安維持が目的であったと考えられます。地元では「領主様」「地頭様」と呼ばれました。 「泣く子と地頭には勝てぬ」 […] 共有:Tweet
2019年1月25日 / 最終更新日時 : 2023年6月25日 musashinoaj 7近世 村に地頭がやってきた 村に地頭がやってきた 天正18年(1590)、小田原合戦が終了、秀吉は家康に関東移封を命じます。家康は早くも7月から8月にかけて江戸に入りました。東大和市の旧家の杉本家28代勘解由種繁(寛永13・1636年6月14日没 […] 共有:Tweet
2019年1月21日 / 最終更新日時 : 2023年4月23日 musashinoaj 8現代 村山貯水池(多摩湖)に沈んだ古村の移転 村山貯水池(多摩湖)に沈んだ古村の移転 大正4年(1915)、石川の谷(上貯水池)から移転が開始されました。全162戸、大半が丘陵の南側(表)に移りました。家財道具は丘陵の坂道を、喘ぎあえぎ、家族中で大八車の後を押して […] 共有:Tweet
2019年1月16日 / 最終更新日時 : 2021年6月21日 musashinoaj 8現代 村山貯水池(多摩湖)の湖底に沈んだ村の住居 村山貯水池(多摩湖)の湖底に沈んだ村の住居 村山貯水池に沈んだ地域には、162戸の家々がありました。161戸との記録もありますが、市民グループの調査により実際に復元した数は162戸でした。その配置は下図の通りです。 沈 […] 共有:Tweet
2019年1月15日 / 最終更新日時 : 2020年9月14日 musashinoaj 8現代 村山貯水池(多摩湖)の湖底に沈んだ村の食生活 村山貯水池(多摩湖)の湖底に沈んだ村の食生活 村山貯水池の湖底に沈んだ村々は古代の住居址を残します。また、寺社は中世の創建を伝えます。 さらに、南麓の地域には僅かの水田しかなかったのに比し、この地では、比較的多くの […] 共有:Tweet
2019年1月14日 / 最終更新日時 : 2020年9月14日 musashinoaj 8現代 村山貯水池(多摩湖)の湖底に沈んだ村の産業 村山貯水池(多摩湖)の湖底に沈んだ村の産業 湖底に沈んだ村は周囲を山林で囲まれ、中央を流れる石川・前川に沿って水田が営まれ、山林との間に畑地が広がっていました。その状況は下図と表の通りです。 狭山丘陵の大きな谷に成立 […] 共有:Tweet
2019年1月10日 / 最終更新日時 : 2020年9月14日 musashinoaj 8現代 村山貯水池(多摩湖)買収対象地域の集落 村山貯水池(多摩湖)買収対象地域の集落 集落 村山貯水池建設に伴い買収対象地域となった集落はどのような状況だったのでしょうか。 住居戸数は162戸(161戸説もあります)でした。当時の村々の総戸数は771戸でしたので […] 共有:Tweet