東大和市域の村々は水田が村山貯水池に沈んだ地域と狭山丘陵南麓の一部の谷ッに限られて少なく、畑作が中心でした。収穫される米は質が悪く山口領の悪米と評価され、年貢は金納でした。

駄賃稼ぎに多くの村人が行き来した江戸街道模式図
クリックで大

 また、武蔵野の赤土を掘り返して開発した畑であり、地味は悪く、肥料の購入を必要としました。
 そのため、早くから貨幣経済に巻き込まれ、現金収入を得る必要から、村人達は農業の合間に収入を得る稼ぎをしました。

 その一つが駄賃稼ぎです。

天保14年(1843)清水村の村鑑明細書上帳などにその姿が書かれています。

一、当村は古来より、極めて困窮の村方です。 男は樵・炭焼、女は木綿糸撚・同機織り、江戸ならびに最寄り市場へ出し申し候
として、具体的に

江戸街道奈良橋庚申塚に立てられていた馬頭観音
寛政9年(1797)造立 クリックで大

・それぞれの持山並びに畔木等を伐って、炭薪にして、
・馬による運搬か、又は川岸(埼玉県新河岸川)へ出し
・或は八王子、五日市、青梅、飯能等へ行き、炭薪を買入れて、
・馬附にして江戸表へ罷り出て御屋敷様方へ納め
・この駄賃を以て御年貢を御上納する助としています。
・馬による江戸への附送りは、夜四ッ時(午後11時)から江戸に出かけ、
・江戸街道(現青梅街道)を夜通し歩いて新宿を経て
・朝方、 外桜田にある曽我又兵衛宅に着き、炭薪を納めて、
・その日の内に立ち戻って、夜五つ前後(午後8時) に帰って来ます。

と記されています。

駄賃稼ぎ途中での妨害に対応した修験者 クリックで大

 農業の合間の稼ぎから「農間稼」と呼ばれました。江戸への出荷は、商業ではなく、馬で荷物を運ぶ「駄賃稼」として幕府からも認められていました。馬の無事と道中の安全を祈って、要所要所に馬頭観音がまつられました。

 しかし、駄賃とはいえ、薪や炭を持ち込まれることで、江戸市中や周辺の関係者は影響を受けます。そのため、途中で妨害行為が発生しました。その対処には頭を悩ましたと推測されます。蔵敷村では交渉役として名主や組頭など村役が先頭に立っています。また、清水村では江戸市中との関係を持ったいた修験が付き添っています。東大和のよもやまばなしに「火をふところにいれた法印さん」がよくその情景を伝えます。

(2017.07.24.記)

東大和市の馬頭観音

馬頭観音をまつった背景

東大和の歴史 近世

よもやまばなし・火をふところにいれた法印さん
モニュメント・火をふところにいれた法印さん