髪は藁で束ねよ、雨具は蓑笠を用いよ 天明8年(1788)のお触れ

髪は藁で束ねよ、雨具は蓑笠を用いよ 天明8年(1788)のお触れ

 天明8年(1788)、天明の大飢饉の時です。東大和市域の村々に
 「髪は藁で結え!」
 との達しが来ました。
 コロナの中での一斉休業が自粛か命令かで問題になる今では考えられません。

 さらに、このお触れの中には
 「百姓が余業の商ひ等をすることは不埒(ふらち)である」と書かれています。

 最近、士農工商の身分制度の見直しが云われます。
 江戸近郊では農民の商いは「不埒」(道理に外れて、けしからぬ)の言葉で処理されていることを紹介します。
 村人達が盛んに行った「駄賃稼ぎ」はどのような位置づけだったのでしょうか?

『里正日誌』2p396 クリックで大

天明の動き

 この通知が出された天明の頃の状況です。

・天明七年春より江戸にて米価高く、初めは百文に白米六合なりしに五合 となり、四合となり、四、五月より又上りて三合となる(『里正日誌』p383)
・5月18日~20日、江戸打ち壊し、大坂など各地でも打ち壊しおこる。
 幕府、江戸の窮民を救済するため、大坂の米を他国に廻送することを禁じる。
・6月19日、陸奥国白川藩主松平越中守定信、老中首座に就任する。 寛政の改革はじまる。
・12月、「髪も藁にて節倹お触れ」が出される。(『里正日誌』2p396)

 天明8年(1788)
・2月、「髪も藁にて節倹お触れ」が東大和市域の村々に直接伝達される。(『里正日誌』2p396)
 ◎貯夫食(食べ物の貯蔵)が本格的に開始される。(『武蔵村山市史』上p1108)
 ◎蓄える物は米・麦・稗・粟など穀物の他、大根切干・木の根・田螺(たにし)・海草など多様に及んだ。(『東村山市史』上p808)
・7月10日、「飢饉の貯えに田螺(たにし)を拾い取れ」の通達が来る。(『里正日誌』2p390)

髪も藁にて云々の御触

「髪も藁にて云々節倹(せっけん・節約)御触」

・百姓は粗末な(麁(あら、い、そ)衣服を着て、髪は藁で束ねるのが、古来からの風儀である。
・それが、近来いつとなく贅沢になり、髪は油の元結を用いたり、身分の程を忘れ、不相応の品を着用する者も居る。
・かっては雨具・蓑笠を用いてきたのに、小雨の時は傘合羽を用いている。
・このようなことでは、次第に入用も多くなり、村柄も衰え、離散するようになる。
・一人離散すれば、その者の御年貢、返納物などを村方が納めることになり、
・村方の難儀も重くなる。
・この手本のため、御代官・手代どもの衣服においても厳しく申し渡し、手代すら倹約に努めている。
・百姓共は少々たりとも奢ることなく、古代のことを忘却しないようにせよ、
・百姓が余業の商ひ等をすることなど、又は村々に髪結床等があるのは不埒である。
・今後は贅沢を改め、随分と質素にして農業等を相励むようにせよ。

 右の趣、村々小前のもの迄行届け、自然と教諭に感し
 百姓の風俗を相改めるように厚く申しつける。

 申十二月

 このような通御書付が出たので、写を二通回覧する。
・承知の旨を印を押し回覧し、
・かつ又、百姓の衣服、風俗のことについては、小前百姓へとくと読み聞かせ、
・一人ずつ請印をとり、宗門帳を差出す時、その請印帳を差し出せ。
 この廻状を早々に回覧し、最後の村より返却せよ。

  飯塚常之丞(幕府代官)
  天明八年(1788)酉二月十四日 役所

お触れの徹底と農民
  
 「飢饉の貯えに田螺(たにし)を拾い取れ」との命令が出された年です。
 よほど生活が厳しかったのでしょう。
 「一人ずつ請印をとって差し出せ」と、通知の徹底を命じています。

 一方で、この頃、村人達は
・八王子、五日市、青梅、飯能等へ行って、
・薪、炭を仕入れ、江戸市中に馬で運んで、
・「駄賃稼ぎ」をしています。
◎「商ひはダメ」を上手にすり抜けて
 旺盛な農民の行動力をますます発揮しています。
 通知の結果がどのようであったかは不明です。

◎これとほぼ同じ内容の通知が54年後の天保13年(1842)にも出されています。

 (2020.10.13.記 文責・安島喜一)

 飢饉の貯えに田螺(たにし)を

 百姓は粗末な衣服をまとい、髪は藁で束ねよ(天保13年・1842)

 駄賃稼ぎ

 炭の買い出し途中で争い(寛政3年・1791 蔵敷村) 

 農間稼ぎ

 東大和の歴史・近世