農間稼ぎ(のうま、のうかんかせぎ)

 江戸時代、東大和の村々では農業の合間に盛んに「稼ぎ」が行われていました。
 
 ・男は樵(きこり)や炭焼をし、
 ・時には青梅や八王子に薪や炭を仕入れに行って
 ・女は木綿の糸撚や機織りをして
 ・江戸ならびに最寄りの市場へ出す
 という稼ぎです。

 東大和の村々には水田が少なく、村山貯水池に沈んだ地域と狭山丘陵南麓の一部の谷ッにごく限られていました。しかも、収穫される米は質が悪くて、「山口領の悪米」と評価され、年貢は金納でした。村人たちは、粟(粟)、稗(ひえ)が常食でした。

 貴重な農地は武蔵野の赤土を掘り返して開発した畑です。地味は悪く、大量の肥料を必要としました。落ち葉や下肥(しもごえ)による堆肥では間に合いません。 ぬかや油かす、鰯(いわし)や鰊(にしん)を乾燥させた干鰯(乾鰯・ほしか)を購入しました。
 年貢の一部や、食料、肥料を買うために現金の収入が必要です。江戸に近かったこともあり、早くから貨幣経済にふれていました。

 このような中で、村人達が編み出したのが農業の合間に稼ぎ出す「農間稼ぎ」です。

集落は狭山丘陵の麓に集中し、南には一面に新田開発した畑が広がっています。その経過を物語るように、ひどく境界の入り組んだ村々が並び合って居ました。
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 その例をあげてみます。

1清水村の例

 天保14年(1843)清水村の村鑑明細書上帳にその姿が書かれています。本文はとても長いので、抽出して意訳します。

 一、当村は天水場で少しの藪川はありますが田用水には足りません。摘田(つみだ)にしております。
 一、田畑の肥料は、ぬか、油かす、灰、ふすま等を用いています。
 一、当村は古来より、極めて困窮の村方です。

   男は樵・炭焼、女は木綿糸撚・同機織り、江戸ならびに最寄り市場へ出しています
 として、具体的に

 ・それぞれの持山並びに畔木等を伐って、炭薪にして、
 ・馬による運搬か、又は川岸(埼玉県新河岸川)へ出し
 ・或は八王子、五日市、青梅、飯能等へ行き、炭薪を買入れて、
 ・馬附にして江戸表へ罷り出て御屋敷様方へ納め
 ・この駄賃を以て御年貢を御上納する助としています。

 ・馬による江戸への附送りは、夜四ッ時(午後11時)から江戸に出かけ、
 ・江戸街道(現青梅街道)を夜通し歩いて新宿を経て
 ・朝方、 外桜田にある曽我又兵衛宅に着き、炭薪を納めて、
 ・その日の内に立ち戻って、夜五つ前後(午後8時) に帰って来ます。

  女は農間木綿縞織出し養蚕などを営み誠に難渋の村です。

 と記されています。

 
・天水場 川や沼などの灌漑用水がないので、雨水を頼りに耕作するところ
・摘田 苗代を作らずに、籾(もみ)を直播(じかまき)します。生えてきた苗が20㌢くらいになると、混み過ぎた苗を摘みとって、残りを育てる。

2高木村の例

 状況は10年後も変わりません。安政2年(1855)です。高木村から提出された「村書上」でも次のように記されています。原文を引用します。

『里正日誌』から原文を引用 クリックで大

 代官江川太郎左衛門支配地では、家数29軒の中で馬を14匹、地頭酒井才次郎知行地では、家数27軒で馬7匹を飼っています。
 この周辺では農事に馬は使いませんでした。ほとんどが江戸への駄賃稼ぎに使われていました。
 農業を基本とする農民が、商売ではなく、荷物を運んで、その運び賃を得るという方法です。
 いろいろ知恵を働かせています。

 木綿糸撚、機織、駄賃稼ぎの具体例については別に記します。

 (2020.10.02.記 文責・安島)

 駄賃稼ぎ

 炭の買い出し途中で争い(寛政3年・1791 蔵敷村)

 髪は藁で束ねよ

 東大和市の歴史・近世

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