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6近世

玉川上水の開削の背景、ルートは?

玉川上水の開削の背景、ルートは?  玉川上水が身近にあるだけに、これだけのものが、何時、どのようにして造られたのか、知りたくなります。 1進む江戸の整備、水不足  家康の関東入府後50年を経て、江戸の整備が進み、参勤交代 …

玉川上水・野火止用水の東大和周辺の現状

玉川上水・野火止用水の東大和周辺の現状  玉川上水・野火止用水と東大和の歴史的な関わりは、「東大和市と玉川上水・野火止用水との関わり」に記しました。今回はその要所をご案内」します。現状は大きく変化し、よほど注意しないとそ …

東大和市と玉川上水・野火止用水との関わり

東大和市と玉川上水・野火止用水との関わり  歴史の上でも景観的にも人気のある玉川上水と野火止用水、東大和市とも深い関係があります。両用水とも市の南端にあり、用水の状況が変化していることもあり、  ・一体、どこにあるのです …

江戸へ石灰を運ぶ道(最初の江戸街道・青梅街道)

江戸へ石灰を運ぶ道(最初の江戸街道・青梅街道)  今では想像も出来ませんが、狭山丘陵の麓から南側は人家も何もない、武蔵野の原野が広がっていました。そこに一筋の道が出来ました。そのお話です。  東大和市周辺には、狭山丘陵の …

村に来た地頭様

村に来た地頭様  家康の家臣が村に来たのは、江戸市中が未整備なことと、つい先日まで後北条氏支配であった村々の治安維持が目的であったと考えられます。地元では「領主様」「地頭様」と呼ばれました。  「泣く子と地頭には勝てぬ」 …

村に地頭がやってきた

村に地頭がやってきた  天正18年(1590)、小田原合戦が終了、秀吉は家康に関東移封を命じます。家康は早くも7月から8月にかけて江戸に入りました。東大和市の旧家の杉本家28代勘解由種繁(寛永13・1636年6月14日没 …

盗賊二人打ち殺しのこと

盗賊二人打ち殺しのこと  幕末です。明治維新寸前の慶応4年(1868)閏4月16日のことです。現在の多摩都市モノレール桜街道駅から青梅橋にかけての桜街道(旧青梅街道)での出来事です。  当日は晴れ、午前10時頃です。芋久 …

相次ぐ蔵敷村・小川村寄場組合の成立

相次ぐ蔵敷村・小川村寄場組合の成立(明治2年・1869~3年・1870) 1県が所管する村の管轄替え  明治2年から4年にかけて、またまた、村人達は所属県の騒動に巻き込まれます。県が所管する村の管轄替えです。  東大和市 …

大がかりな所沢寄場組合(八州廻り・文政の取締改革)

大がかりな所沢寄場組合(八州廻り・文政の取締改革)  当初は、村人達の反発もあった八州廻りは、費用や協力体制の上から、次第に定着します。そして、狭山丘陵の南麓には、文化4年(1807)、早々と浪人取締組合村が設置されてい …

八州廻りと浪人取締組合の設置(文化4年・1807)

八州廻りと浪人取締組合の設置(文化4年・1807) 荒れる村  天明の飢饉以降、1700年代の後半になると村は様変わりしたようです。  借金で困ってどうしても耕地を手放さなくてはならなくなる農民が出てきます。すると、いつ …

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