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6近世

丸彫地蔵尊(東大和市庚申墓地)

丸彫地蔵尊   奈良橋 庚申塚墓地 文化4年(1807)  奈良橋五丁目、庚申塚墓地に、秩父、坂東、西国の百所めぐり完遂を記念して建立した丸彫地蔵尊があります。 文化4年(1807)のことです。村山貯水池の湖底に沈んだ内 …

馬頭観音をまつった背景(東大和市)

馬頭観音をまつった背景(東大和市)  東大和市内には、寛政3年(1791)を最初として、昭和2年((1927)まで、23基(19基確認)の馬頭観音様がまつられています。どのような経過で村の人々はおまつりしたのでしょうか。 …

藁餅(わらもち)で飢饉を切り抜けよ!!

藁餅(わらもち)で飢饉を切り抜けよ!!  天明三年、幕府のお達し  天明3年(1783)10月3日、幕府代官所の飯塚 伊兵衛から、東大和市域の村々にお触れが届きました。   「御勘定所」より「飢饉で食糧が不足し、米価が高 …

飢饉の貯えに田螺(たにし)を拾え

飢饉の貯えに田螺(たにし)を拾え 天明8年(1788)7月10日  幕府役人飯塚常之丞から、東大和市域の村々に次のような通達が出されました。 飢饉のための貯(たくわえ)に田螺(たにし)を拾い集めよ ・水田や小溝(こみぞ) …

玉川上水の開削の背景、ルートは?

玉川上水の開削の背景、ルートは?  玉川上水が身近にあるだけに、これだけのものが、何時、どのようにして造られたのか、知りたくなります。 1進む江戸の整備、水不足  家康の関東入府後50年を経て、江戸の整備が進み、参勤交代 …

玉川上水・野火止用水の東大和周辺の現状

玉川上水・野火止用水の東大和周辺の現状  玉川上水・野火止用水と東大和の歴史的な関わりは、「東大和市と玉川上水・野火止用水との関わり」に記しました。今回はその要所をご案内」します。現状は大きく変化し、よほど注意しないとそ …

東大和市と玉川上水・野火止用水との関わり

東大和市と玉川上水・野火止用水との関わり  歴史の上でも景観的にも人気のある玉川上水と野火止用水、東大和市とも深い関係があります。両用水とも市の南端にあり、用水の状況が変化していることもあり、  ・一体、どこにあるのです …

江戸へ石灰を運ぶ道(最初の江戸街道・青梅街道)

江戸へ石灰を運ぶ道(最初の江戸街道・青梅街道)  今では想像も出来ませんが、狭山丘陵の麓から南側は人家も何もない、武蔵野の原野が広がっていました。そこに一筋の道が出来ました。そのお話です。  東大和市周辺には、狭山丘陵の …

村に来た地頭様

村に来た地頭様  家康の家臣が村に来たのは、江戸市中が未整備なことと、つい先日まで後北条氏支配であった村々の治安維持が目的であったと考えられます。地元では「領主様」「地頭様」と呼ばれました。  「泣く子と地頭には勝てぬ」 …

村に地頭がやってきた

村に地頭がやってきた  天正18年(1590)、小田原合戦が終了、秀吉は家康に関東移封を命じます。家康は早くも7月から8月にかけて江戸に入りました。東大和市の旧家の杉本家28代勘解由種繁(寛永13・1636年6月14日没 …

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